長浜城

(駿豆国境の北条水軍の要の城)

○まえがき
伊豆箱根鉄道駿豆線:伊豆長岡駅の西方6km、内浦湾の奥深く、長浜と重須(おもす)の境にある丘陵状の岬に築かれた海城で、韮山城の重要な支城である。
車では、伊豆三津シーパラダイスを目指し、長浜から重須に入ったところのJA南駿重須の駐車場に停めさせてもらう。道路挟んで向かいの丘陵が城で、東方釣堀側の長浜口に遊歩道が整備されている。

静岡県

概念図

○城址
概念図に示すとおり県道が尾根を分断している。発端丈山から降る尾根の先端が主要な郭で、南の標高35mの尾根ピークに出郭1、更に標高96mの尾根ピークに出郭2を設け、高所からの監視と併せ三津新城との連絡路確保に用いていたと思われる。
小さな城だが直線の4連郭に15の腰郭を配している。主要な郭には南西に土塁を築き、重須方面からの攻撃に備えている。主郭の北側には階段状の腰郭が設けられ、腰郭の先端は岩場となり海深く入り込んでいる。現在も多くのヨットが係留され、岬の両側とも格好の船留まりであるが、特に重須の方が水軍基地として申し分ないようだ。
ところで、二郭から西2/3が三井家の別荘地、弁天社がある三郭から東1/3が大川氏の所有地であった関係で手が加えられているが、戦国期の遺構を十分確認できる状態にあり、昭和63年に国史跡に指定され、平成14年にも追加指定されている。
なお、船大将は宿営地である南の田久郭から大手と云われている重須口から登城し、船留まりへは陰野川から小舟で行き来したのであろう。

○城歴
沼津史・静岡県史によると、異本太平記に畠山国清によって築かれたと伝えられるが、城に関わる史料はないようだ。
史料に登場するのは、武田氏との緊張が高まった天正7年(1579)十一月七日の木負の百姓宛てに出された北条氏の印判状である。三枚橋城を拠点に支配の拡大を狙う武田氏に対して、長浜城を築城して駿河湾の制海権を強化しようとするものである。天正8年三月十五日未明、武田方の船5艘が重須を急襲し海戦の火ぶたを切っており、長浜城の防御を強化したことは確かであろう。
そして、再び史料に登場するのは、豊臣秀吉の小田原征伐である。天正17年(1589)十二月十九日付け大藤与七宛の北条氏定書をみると、韮山城に籠った要員のうち80人を長浜城に差し向け、一定期間で交代することを命じている。おそらく、この時期まで城の防御は固められていたのであろう。
天正18年二月二十八日付け北条氏政書状に北条水軍の主力を伊豆東浦に移し、長浜城を在地土豪:大川若狭に守らせている。北条氏は個別の水軍では豊臣水軍の大船団に太刀打ちできないと判断し、長浜城から水軍を撤収せざるを得なかったのであろう。この大川氏は地侍で、北条早雲が伊豆に入った時に配下になった北条氏譜代であり、最後も長浜城の守備を任され、近年には城を地元に寄贈している。

○あとがき
長浜城に関する文献が多いが、やはり地元の「静岡県史」、「沼津市史」、「ふるさと古城の旅(水野茂著)」、「第10回見学会資料:伊豆長浜城と獅子浜城並びにその周辺(昭和46年5月)東海古城研究会静岡支部」などが詳しく、参考にさせていただいた。
ところで、「史料と遺構が必ずしも整合していない」ことは、この長浜城でも云える。
遺構から推測すると、長浜城は「韮山本城」「土肥高谷城の三郭」と同時期の築城と推測され、北条五代のうち、かなり早い時期に築かれていたと推測される。というのは、周辺の天正期築城と思われる獅子浜城南遺構・重寺城小城山・三津新城の遺構などと比べれば違いが明らかで、長浜城は年月を費やした入念な造りになっている。
何故、天正期の築城ではないのか?
天正期に入ると鉄砲戦が主流になり、水軍を保有する戦国大名は船の大型化や火力の強化に「人・モノ・金」を投入している。武田水軍に悩まされた北条氏も「海城の防御強化より、戦船の強化」を選択したと考えるのが妥当であろう。