教育論ノート

 1日の仕事が終わり、最寄の駅に着いて必ず立ち寄る喫茶店がある。コーヒーを注文し、本を読む。そしてノートを開いてペンを走らせる。もう二十数年も続けてきた、僕の生活習慣の一コマである。何を書くと決めているわけではない、その場その場で思いついたことどもを、忘れぬうちに書き留めているといった風である。一行、二行で終わることもあるし、数ページに渡って書き続けていることもある。
 振り返ってみれば、教材作り、授業づくりや、種々の原稿も、そのほとんど全てがこのノートのメモ書きから生まれていることに気づいて、われながら驚かされる。僕にとってもっとも身近な対話の手段であったのかもしれない。しかし何せ20年以上になる、「○年度 ○○小Work」と表書きした、いったい何冊のノートを作ってきたのか、皆目検討もつかないでいる。
 ほとんど無意識のうちに「やってきた」ノートだが、ひとつweb上に公開して、読んでくださる人たちと対話できればと考えるようになった。案外、教育や学校を考えるヒントがそこに見出せるかもしれない。

 2012年1月2日(月)

“詩の朗読会”本番に向けて

 Yさん、11月25日の「詩の発表会」に呼んでもらってありがとうございました。子どもたちうまくなっていましたね。特にA君、B君、Cさん、Dさん、E君は表現読みができていました。何よりも「こんなに気持ちを込めて読んだ朗読」が、笑われたり、恥ずかしがられたり、敬遠されたりせずに、みんなから大きな拍手をもらい、評価されて、自分もあんなに読めたらいいなと、ちょっとしたあこがれを持たせたことが一番良かったことだと思います。
 つまり表現読みが恥ずかしいことではなくて、目標になったからです。
 さあ次は「ろう読会」をやりましょう。「ろう読会」の最大の留意事項は、「子どもたち一人一人をビンビンに緊張させる」ことです。そのために舞台づくり、小道具などを工夫しましょう。
 例えばこんなのはいかが?
1.黒板に横断幕を張る。 「3年2組 第1回 詩のろう読会」
2.必ず一人一人が前に立って朗読しますが、その前にマイクスタンドを立てて、マイクを置く。
3.全員の朗読を録音して、お家にも回して聞いてもらうことを伝える。
4.朗読する姿を写真で撮影する。
5.2〜3日前に朗読の順番を抽選で決めて、黒板に書いておく(張っておく)
6.「ろう読会」の日を伝えておく。学級通信でも知らせ、家でも話題に上らせて、余計に緊張をあおる。

 みんなうまくなっていましたが、これであなたが満足してはダメ。さらに次を目指して、1週間後の本番に向けて、学級でも家でも練習させる。50回以上はできるはず。「大きな声」「気持ちを込める」「ゆっくりと」がめあてになるのではないでしょうか。
 
 「ろう読会」が終わった後が、さらに肝心!
1.録音したMDやCDを家庭に回覧する。学級通信で知らせて希望を募る。2本くらい用意がいるかな。できるだけ全家庭に回覧したい。
2.学級通信(「第1回ろう読会」の報告号でもよいし、2学期終業式に配る号でもよい)に、一人一人の「ろう読会で一生懸命朗読する写真」」を張って手渡してあげよう。
 こういうところで家庭、保護者のハートと信頼をわしづかみにしてしまうのです。
2011年12月5日(月)

詩の朗読会を計画してみようか

 新任教員のYさんが、校内研で授業公開した後、立ち話でこんなことを言った。「子どもたちの声が小さくて、もっと大きな声で発言できるようにしたいんです。」そして、ちょっと言葉を探しながら「なんか自分が変わってきたような気がしているんです。いつも怖い顔ばっかり見せてしまって。授業中でももっと子どもたちが元気な方がいいと思うんですが、でもそれを言ってしまうと収拾がつかなくなってしまいそうで・・・」と。
 「ひとつ“詩の朗読会”を計画してみようか」と持ちかけてみた。翌日こんな手紙を置いた。
1.詩を決める。(今回は先生がこれをやってみたいと思うものを選ぶ。)
2.詩を配る。
この最初に詩と出会う時を何よりも大切にする。
@先生が「こんな読み方をしてほしい」と思っている最高の朗読をしてみせる。教師の最高のパフォーマンスを。
A子どもに朗読させる。たとえば、「先生みたいにウンと気持ちを込めて読んでくれる人いないかな!」
ここで「大げさに読む」ことが恥ずかしくないんだということを感じてほしい。大事な場面です、大切にしてほしい。
3.詩に読み方の記号を付ける。
@黒板に詩を力強く書いて、(全部でなくてもよい)記号を付ける
・直線(強く読む) ・二重線(もっと強く) ・波線(やさしく) ・二重波線(もっとやさしく)
・螺旋(ゆっくり) ・・・など。
A記号に合わせて読んでみる。
一人で、みんなで、
記号を変えて読んでみる。その楽しさを子ども達と共有したい。子どもからいろいろな記号が生まれてくるのではないか(つまり、こんなことを注意したい、こんな読み方をしたいとの意思表示でもある)。
B表紙を配ってていねいに貼る。
4.これから毎日「朗読」の宿題

※「詩の朗読会」のやり方は次に。

 2011年11月6日(日)
 
「張り紙」で指示を出す教師の発想

 何の前触れもなくある日突如として、職員室の前後のドアに子どもに向けた「張り紙」が張られていた。ノックをすることから、入室の言葉、退室時の言葉、態度などを書き並べてある。私も何度となく出入りするドアだから、見ないわけにゆかないし、見れば心が騒いでしまう。落ち着かぬ日々を過ごしていたら、今度は廊下に「電気のスイッチのつけ方」を記した「入り紙」が、何か所かに張られていた。もう黙って見過ごすわけには行かなくなってしまった。
「職員会議への手紙」
 先日の職員朝礼で私が発言した「張り紙」の問題を今日の職員会議で話し合うことになっていましたが、どうしても抜けるわけにいかない都合があり、本日の職員会議に出られませんので私の考えを手紙に書いて参加したいと思います。それほど重要な教育問題がこの課題にはあると認識しています。以下の理由で(大きくいえば二つの理由)、私は職員室のドアの張り紙と電気スイッチの張り紙をはずしていただきたいと思っています。

1.セイビ小学校の子どもたちをどのように育てていくのかという、大事な教育論の問題として

「子どもは電気をつけません」との張り紙

なぜ、子どもは電気をつけてはいけないのでしょうか。子どもが暗いと思ったら廊下や教室で電気をつける、もったいないと思ったら消す、それでよいのだと思います。「点ける・消す」ことまで教師の指示に従わなければならない理由は何もない。「点けっぱなしになっている」との話があったが、はたして子どもがつけっぱななしにしているのでしょうか、むしろ大人の側が私も含めて、つけたままにして、忙しさにかまけて節電を考えずにいることのほうが多いのではないかと思います。

職員室ドアの張り紙

 まずセイビ小の子どもたちの職員室での態度は決して悪くない、と私の経験上では思っています。これ以上、「(言い方・ノックの仕方など)こうしなければならない入り方の決まり」を子ども達に押し付ける必要はありません。職員が休憩したり、仕事したりする迷惑にならないルール・エチケットを守れるようにして、子どもたちそれぞれの職員室への「入り方・出方」があっていいのだと思います。

 職員室は、子どもが友達のいるところでは言えないことを、職員室にやってきて先生に相談できるような場所であってほしいと思っています。実際に私もその人にとって人生に大きな影響を及ぼしかねない相談を受けたことも何度かありました。

 成美小でも、職員室で気持ちを落ち着かせたり、話すことで自分を整理するためにやってくる人たちもけっこうあります。最もその多くの人たちは、張り紙には目もくれずに入って来ていますが。言い換えれば、「教師が押し付けようとする指示」を無視する、あるいは撥ね付ける強さを発揮しているといってもよいのかもしれません。

 しかし中には、先生に相談したい、悩みを打ち明けたいと思っていながら、その問題を抱えることだけでも心がいっぱいになって重いのに、さらに職員室に入るルールを強制されてしまっては敷居が高くなって、入り口をくぐるだけでも大きなハードルになってしまうことも考えられます。

職員室は、もっともっと気楽に入れるところであってよいのです。あたりまえのことですが、先生たちは子どもよりえらい存在ではないのです、先生のいる部屋は一段高い、権威のある空間ではないのですから。

何が問題なのか

 ルールや指示を一方的に張り紙で知らせたら子どもは従う(従わなければその子どもが悪い)などと考えるのは、教師の幻想であり、そう考える裏には教師の権威主義や傲慢がある。頭ごなしでも、大声で怒鳴りつける方がまだましで、江戸時代の殿様が庶民の気持ちを思い量ったり寄り添ったりすることなく、いきなりお札・高札を立てて決まりを知らし召すのと変わらない。そこには上下関係と、守らなければ罰則を与える権力を背景にした脅しの構図が存在している。

 決して大げさではなく、これと同じ構図が張り紙にはこもってしまうのです。

一番問題なこと

 張り紙をする考え方や行為には、「子どもとの関わりや関係性」が全くないのです。いやむしろ、教師の方から「関係」を切っているのです。こうしたことが常態化していくと、たちどころに教師の教育力はなくなってしまいます。子どもも育ちません。

ではどうすればいいのか

 注意すればいいのです。子どもの態度や姿が気になれば、言葉をかけて注意するのです。時には激しく怒ることもあります、ゆっくりと話を聞きながら説明することもあります。言った尻から約束を破られることもあるでしょうし、何度言っても変わらないこともあります。ほとんどがそうだと言えるかもしれません。それでも、話し続ける、怒り続けることが大事なのではないでしょうか。そこに子どもと先生・職員との関係が生まれてくるのだと思います。

 子どもにとっての教師の権威は初めからあるのではありません。教師の授業や普段の言動、立ち居振る舞いを見て、子ども自身が感じ取るものだと思います。決して教師が「与えて」「知らしめさせる」ものではないと思います。

2.来校者にはどう映るのか

 セイビ小学校にはたくさんの来校者があります。保護者、地域の方、教育関係者、教育委員会・・・などら。様々な目で参観していただいたり、見守っていただくことは大切なことだし、同時にセイビ小から取り組みを発信していくことも必要だと思っています。また、それが求められている時代でもあります。

 そのときに、「張り紙」はどう映るのでしょうか。「セイビ小学校の子どもたちは、こんな張り紙をしなければ職員室でのマナーも分からないのか」「廊下で暴れまわっていて電気スイッチの管理を職員がしなければならないのか」・・・などと思われたら、私はとても悔しく思います。

 経験で言えば、「シンドイ学校」ほど教師の張り紙が多いものです。そしてほとんど子どもたちにはその意味が届かず、約束が守られません。そもそも約束が成立しないのだと思います。教師が一方的に約束したと思っているだけで、双方の心が通じた納得にはなっていないのですから。子どもたちが育っている学校ほど、教師の張り紙は少ないものです。

 私だったら、こんな張り紙があるだけで、「この学校は子どもを大切にしていない」と思ってしまいます。

 一見些細なことに見えるかもしれませんが、教育の大きな課題があると思います。子どもを育てる機会は、私たちの身の回りいたるところにあります、しかし同時に子どもをつぶす機会も身の回りのいたるところにあるのだと思っています。


2010年1月3日(日)

強さ、それともやさしさ?

 職員室に立ち寄られた保護者のNさんと立ち話をした。中学生のお姉ちゃんの様子を尋ねた私に、毎日クラブでがんばっていることを伝えながら、「でもね、4年生の一番下の弟が弱虫でね。やさしい子なんだけどね、もっと強くなってほしんですけど、無理みたいでね・・・。」と、ちょっぴり思いつめたような表情を浮かべてそう言われた。Nさんの子ども達3きょうだいの、いずれ劣らぬやわらかい笑みを湛えた表情が目の前に浮かんだ。
 「お母さんは、強いことと優しいこと、どちらがいいですか?」と私は聞いた。「・・・」唐突な質問に戸惑われたのかもしれない。「僕だったら、断然優しさを選びますね。強さというのは、なんだかがんばっていてもどこかでポキッと渇いた音を立てて折れてしまうような、もろさを感じてしまうんですね。」と私は答えた。Nさんは子ども達に負けないくらいのやわらかな笑顔を見せて職員室を出て行かれた。


2010年1月3日(日)

 まちがってはいけない、子どもたちを静かにさせることが大事なのではない、学習を生み出すことが大切なのだ。
(新年度を迎えて、特に新任教師や転勤者にとっては、最初の子ども達との出会いの場は緊張する。教師だけではない、子どもにとっても同様だ。どんな格好や表情をしていても、子どもも教師の言葉を待っている。その出会いの場で何を伝えるのかを、大切にしたい。)

2010年1月3日(日)

授業は何のために


 「子どもが育つ仕組み。育てる仕掛け」、その最も基盤にあるのが、毎日取り組んでいる授業である。さて、いったい授業は何のためにするのだろうか。
 授業とは、教えるためにするのではなく、子どもを育てるために取り組む営みである。教えることは、育てるための一つではあっても決してすべてではない。










 育てる授業だからこそ、学習の世界は広く、深く、豊かなものになる。教材研究がおもしろくなり、様々な授業方法が生まれてくる。
 なんだか次第に、育てることがないがしろにされ、教えることばかりに目が奪われるようになってはいないだろうか。勢い効率よく教えることに授業の意味が特化されてきたように思われてならない。

2010年1月3日(日)

 ほんとうは、友だちがきらいな人は誰もいない、
       ほんとうは、学習がきらいな人は誰もいない。


2010年1月3日(日)

授業者への手紙
「まとめ」をしない辛抱と努力、そして勇気を


 テーマを一つに絞って書きます。「問題(ふしぎ)を見つけ、試行錯誤しながら追求し、解決していく力」を子ども達に育てるにはどうすればいいのか、ということです。直接それを課題にすることが出来る授業を提案してくれました。
1.長い目で見ましょう。
 1年かけて、全ての教科を通して、授業時間だけではなく学校での暮らしを通して育てるという見通しを持つ。
2.Kさんの発言
 授業の場では、誰がどんな発言をするのかはわかりません。予定したとおりの発言が出て、予定したとおりに授業が進んだのでは学習は生まれません。
 今日は先生が「色々な面積の求め方を見つけてほしい」とテーマを出したのですから、Kさんは決して間違っていない、他の人が考えないことを探そうと意欲的に考え、五角形を切り刻んで三角形と長方形に分け、1辺1センチのマス目よりも長さを計って計算したのです。そして詳しく自分の方法を発表してくれました。
 むしろこの発言を通して、みんなで考え合う場を作れたのではないでしょうか。周りから質問や反対・賛成の意見が出て、「算数の世界、算数の仕組み」から考えれば、Kさんの考え方は不合理であることも交流できたのではなかったかと思います。
 ではなぜそうならなかったのか?
▼Kさんが説明を終えた後、「質問はありませんか」と一言聞けばにぎやかに手が挙がったかもしれません。
▼「先生もどう切ったのかよくわからないので、線を引いてもらえないかな」と頼んだのはよかったのですが、やはり子ども達からその質問が出てほしいですね。
3.教師がまとめてはいけない
 予想されるパターンの「掲示用の図」を準備していたようですが、よくそれを出さないで我慢できたと思います。教師はまとめをしたくてたまらなくなるのですね。喋りたくてたまらないのです。もうこれは職業病です。
 例えば最初の発言者のN君から、発表の後にあの図を出して黒板に張り、「N君が言いたかったのは、こういうことですね。」と先生がやると、N君の発表、表現を全て潰してしまいます。子ども達はせっかく聞いたN君の意見をあっという間に捨ててしまって、先生の、実は「うすっぺらなまとめ」だけを鵜呑みにしてしまいます。これでは子どもは育たない。
 今日の7人の子ども達の発表に対して、先生の「まとめ」が一つもなかったのが一番すばらしいことだったと思います。子どもたちが先生の言葉に頼るのではなく、友だちの言葉、友だち同士で交わす言葉や、何とかわかりやすくしようと工夫した図や、黒板に書く文字、記号をしっかり見て、聞いて、それを頼りにしながら考える状況や場を作らなくては、聞き合う、学び合うことは生まれないのではないでしょうか。いつも先生がまとめてくれると思えば、子どもは友だちの一言一言に緊張したり、聞き入ったりするはずがありません。
 子ども達が試行錯誤しながら一生懸命に言葉を捜して発言し、中には勇気を奮い起こして震える声でポツリポツリと言葉をつなぐ人もあるでしょう、そうした子ども達の交流の後で、先生が見事に黒板に要点をまとめ「さあ、これをノートに写しなさい」と言い放ってしまうようではいけないということです。
 うまく行かなくても、我慢しながらでも、子どもたちに任せる辛抱と努力と、そして勇気が必要なのだと思います。
 最後に「今日の授業の振り返り」を書かせたときに、なんとMさんは「この方法を使えば、どんな多角形でも面積を求めることができるということがわかりました」と書き、手をあげて発言してくれ、参観していた教師達の感心した笑顔を引き出してくれるのです。たいしたものですよ、子どもというのは。
4.「書く」と言うことをもっと追求しましょう。
 私は「算数のつづり方」と呼んでいます。算数に限らず、書くということは、自分を表現する、相手に伝える手段であり、自分の考えを耕す手段でもあります。つづり方として、ノートとして、どんな使い方があるのか、さらにどんな可能性があるのか研究する値打ちがあると思います。
 ご苦労様でした。いい授業でした。これからも学習の世界を、楽しみながら追求していきましょう。

2010年1月3日(日)

「算数の世界のことば」と「生活の世界のことば」

 1年生の研究授業があった。「水のかさの比べ方」の単元で、形と大きさの違う容器に入った赤色と黄色の水のどちらが多いかを比べる授業であった。同じ形と大きさのコップで何杯分かを調べてみることになった。
 子ども達は、色水の入った二つの容器とコップが置かれた給食用のお盆を受け取り、落とさぬようにそーと机に運び、さっそく班毎に実験が始まった。
 二人で大きな容器を持ち上げたり、容器を持つ人とコップの人を分けたりしながら、注意深く注いでいく。一杯汲んで机上に並べてはため息を洩らす人もある。
 と、目の前の班が少し水をこぼしてしまった。とっさにそばにいた参観していた教師がティッシュを出してふき取ってしまった。そして、こぼすことを気にかけたのか、担任が各班に雑巾を配って回った。
 私は一つの班に近寄って、お盆の中に落ちている少し大きめの水の粒を指差して、「これはなにかな?」とたずねてみた。目を近づけながら子ども達はポケットに手を入れてハンカチやティッシュを取り出し始めた。慌てて私はボールペンの先で「水の粒」を示して「これ」と言いなおしたのだが、「こんなちょとはかめへんねん」と言うが早いか、さっとふき取られてしまった。
 私は「比べるかさの一部であるこぼれた水」にこだわりたいと思う。算数の授業は、「算数の世界のことば」や「算数の世界の仕組み」を学ぶことだと考えている。「こんなちょっとはかめへんねん」というのは「生活の世界のことば」である。
 他にも、担任が小さなコップを見せたとき、「うわーちっちゃ」と驚きながら、「ちっちゃい方にすると、どっちもちっちゃくなる」「ちっちゃい方が多くなる」「こぼれやすい」ということばが飛んだ。これも「生活の世界のことば」。このとき子ども達は「生活の世界のことば」で考えている。
 算数の授業の場面では、生活の世界と算数の世界のことばが混在しながら進んでいるのだが、「生活の世界のことば」で考える子ども達に、「算数の世界のことば」を使って、「算数の世界の仕組み」を考える経験をしてほしいと思う。
 「ああではないか・こうではないか」と考えあぐね、「こうしてみたらどうだろう」と、「あの手・この手」を使って試してみる、試行錯誤の末にパカッと音がするように「ふしぎの殻」が割れて、真理が顔を出す。私は算数の学習の魅力はそんなところにあると考えている。

2010年1月3日(日)

名人芸?それとも教育?

 3月に引き続き、大学の研究者で、著名で超多忙な(ということであるらしい)Nさんを、特別支援教育の校内研修の講師として再び招くことになった(3月の研修については、小欄3月22日付参照願いたい)。この日も開始ぎりぎりに到着し、5時には次の予定ですぐに飛び出さねばならないとの前置きがある程の忙しさだ。
 研修会の冒頭、「子どもが表面に現す言動に、LD、ADHD、アスペルガー、発達障害などの看板やレッテルをつけて理解したつもりになってはいけない。言動の背景、奥にあるものを見つけなければならない。」と言われたことには大賛成であった。
 その後1時間半に渡って「背景、奥にあるもの」の分析が続くのだが、いやはや私には驚きの連続であった。5時限目の45分間に5クラスを参観されたのであるが、その間に一人ひとりの子どもの特性と、家庭環境、母子・父子関係、身体的特徴・習慣・・・を見抜き、一人ひとりの課題と指導方針を具体的に解説するのである。その数は30人をくだらない。時間があれば全ての子どもについて語れるといった風である。しかも、「ではないか」「だとおもう」ではなく、「こうなっている」「だからこうすればいい、しなければならない」と断定調の言葉遣いで話す。
 母親の性格、虐待の可能性、現在の家庭事情までが語られるので、職員は子どもの顔を浮かべながら、あまりに的中するかのようなその話に目を白黒とさせてしまう。途中で「前もって何もお話してないんですよ」と校長の言葉が入ると、尚のこと嘆声が漏れる。私は、何でも見通してしまうマジックの「千里眼」を見るようで、これはすごいと思わずうなってしまった。
 しかしこれは教育なのだろうか。あまりの見事さに、私の頭にはNさんの「名人芸」という言葉が浮かんでしまった。まちがいなく聞く者・聴衆を惹き付け、拍手喝采を浴びるにちがいない。「これまで3万人の子どもを分析した、著名で超多忙」というのもうなずける(私は寡聞にして存じ上げなかったのだけれど)。
 Nさんは授業、教育実践をしているわけではない。私たちは日々の実践をしながら、子ども達と向き合い、見つめ、今表れている行動や言葉の意味を考え、そのためにその背景や奥にある生活やからだ、家庭環境などにも思いを馳せ、実際に子どもと話したり家庭訪問したり、様々な機会と方法を使って「知る」ことに努めている。決して分析することを目的にしているのではない。
 教師達がNさんの真似をやりだすといったいどうなるのだろうか。片手にNさん作成のチェックリストを持ちながら、子どもの言葉や行動、からだの動かし方を観察し、分析して、学年集団や職員で子どもを判断するような「教育活動」が進行していくことになったら。
 「名人芸」とは、誰にでもは出来ないからそう言うのであって、誰も彼もがまねてやりだせば「ものまね芸」になってしまう。「ものまね芸」で分析した子どものレッテルを作り、それを披露しあうような職員室の雰囲気が生まれればいかにも恐ろしい。さらにその分析に基づいて、疑うこともなくまっすぐに子どもに向って行動を起こすようなことがあれば、子どもの「いのち」を脅かすことにもなりかねない。
 今ひとつ痛感すること、教師はかくも批判精神を喪ってしまったのだろうか。いや奪われてしまったのだろうか。

 

2010年1月3日(日)

変わらぬ風景

 9月の3週間〜4週間、運動場や体育館、教室でも校内のいたるところから音楽が鳴り響き、子ども達の掛け声が反響し合う。そして教師の舌鋒鋭い怒鳴り声もあちらこちらから聞こえてくる。30年変わらぬ運動会に向けた学校の日常風景である。
 2週間を過ぎ、最後の1週間を残す頃になると、特に団体演技の練習では、なおさら教師の声は鋭さを増し、子ども達の表情も変わってくる。教師が演技の中身を作り指導する場合もあるし、子ども達の創作を交えるときもある。
 子どもと教師、双方が次第に熱を帯び、ときに火花を上げ(教師も、子どもも)、めらめらと燃え上がるように視線を交え、ガップリ組み合った練習となるときもある。教師と子どもの関係がフッと変化する瞬間でもある。
 そして運動会、演技を終えた子ども達が「どうや?」と、胸を張って教師を見つめる、「うん」と無言で子ども達を見つめ返す。瞬時に交わす無言の会話がお互いを駆け巡る。こんな経験を通して子ども達は育っていくのだと毎年心を揺さぶられながら感じている。
 今年も教師と子どもとの無言の会話がいくつも校内を駆け巡っていた。

2010年1月3日(日)
 
 最近、戦争のことを勉強すると、「夜怖くなって眠ることができない」と家庭で洩らす子どもがあるそうだ。原爆の被害者のことを考えると、あまりの悲惨さに、平和公園や資料館を見ることができない、だから修学旅行には行きたくないと、親に訴える子どもがあるという。そんな「子どもの実態」を配慮して、「平和学習はしなければならない大切な課題だし、きちんと学習する」ことを前提にと強調しながら、広島修学旅行の変更を提案する教師があるそうだ。

2010年1月3日(日)

授業の感想 手紙3
(4年生 算数科「平行四辺形の特徴」)
4年生さま
 授業研の取り組みご苦労様です。今日の授業よかったです。一言で言えば、こういう授業の中で子ども達は学習する力を身につけていくのだと思いました。
1.研修テーマ「ききあい、学び合う子どもを育てる」に沿ってみると―
 先生と子どものキャッチボール(これもいいものです、大切ですし)→から→子ども同士がキャッチボールする場・交流する場
へと、広げていくことが必要なのではないかと思います。
 先生の役目は、交通整理と、子どもと子どもをつなぐことです。
2.今日の授業は、その「交流」がとてもよくできていました。しかも1時間の中で、「交流の仕方」が子ども達によって変えられていきました。言い換えれば深められていきました。
例えば、発見した「ひみつ」を発表するときに、▼「向かい合う角度がいっしょ」と立って発言→先生が受けて、前の平行四辺形の紙に書き入れる→何人かそんなやりとり→▼Aさんが「説明しにくいから、前に出てもいいですか?」と聞いて、前に出て説明する。→次々に前に出て説明する人が出てきた。説明する言葉も少しずつ詳しくなってきました。
3.課題として
 今日の授業でいいのだと思います。こういう交流する取り組みの中で、子ども達は学習する力をつけて育っていくのだと思います。あえて課題をつくるならば、
【教師の交通整理の仕方・子ども同士をつなぐやり方】になるのではないでしょうか。
@もっと(もう一息、一呼吸)待ってもいい。
 子どもは発言しながら(発言中でも、きっと試行錯誤しています)次の言葉を捜しています。その言葉をしどろもどろでも、発言してほしいし、こちらは聞きたい。今日は先生が、前の紙に線や角度を書いて整理してくれたが。
A色々な説明のしかた(道具を使ったり、黒板に書いたり、友だちを呼んで持ってもらったり、手伝ってもらって発表したり・・・)を工夫し、挑戦しようとすればいいですね。
Bグループ学習(4人の班学習)の仕方。慣れてもいないのでしょう。全体の交流の方がずっとおもしろかった。
C @Aを大事にしていけば、当然時間は長くなります。でもそこが大事なのでは、そこに学習が生まれているのでは、と私は思っています。1時間の授業の中で、例えば今日の「まとめ」はなくてもいいのではないでしょうか。あの「残りの時間」でまとめてしまってはもったいない。「まとめ」の部分だけでも学習が作れます、交流の場も作れます。
 つまり、あんまり「授業の形」にこだわらないで、子ども達に乗っかることが大切なのではないかと思います。教師の都合よりも、子ども達の都合を大事にできるかということでもあります。けっこう難しいことなんですが。
DB君のような、算数的でない思考の仕方をする人に、どう対応するか。「算数の世界の言葉」とそうでない言葉ってありますよね。そのちがいをはっきりと使い分けて、示す教師の姿勢が必要なのだと思います。
 1時間の授業だけではなくて、算数の学習の中に、「言葉で表現する」取り組みを入れるということも必要だと考えています。私はそれを「算数の綴り方」と呼んでいます。別の機会に触れたいと思います。
 「きき合い、学び合う力」をつけるためには、何よりも先生が率先して、「きき合い、学び合う」姿を見せることから始まるのではないでしょうか。


2010年1月3日(日)

授業の感想 手紙2
(1年生 国語科)
Uさんへ
 Uさんの姿がとてもよかったです。子ども達がその姿にいっしょうけんめい応えようとしていて、「教師と子ども達の関係」がつくられようとしている、その現場を見せていただいた充実感がありました。
 Uさんが大きく、豊かになっていました。だから子ども達の発言を受け入れられる、待てる、聞けるのだと思います。たぶん発言だけではなく、子ども達を受け入れられるようになったのではないでしょうか。
 では、これからの課題は何かと言えば?
さらに聞けるように、さらに待てるように、さらに受け入れられるように、つまりこれまで悩んだり、試行錯誤したり、何度も授業研に挑戦したりして、自分を培ってきた今の豊かさを、さらに豊かに、していくことだと思います。
@もっと一人の子どもを見つめる。目を離さないくらいに。
Aもっと深くまで語りかける。心のそこまで届けと。
Bもっと子どもの言葉を聞く。「言おうとしている(言葉に表れていないことば)」も聞くつもりで。
Cもっと子どもの視線を自分に集める、集中させる。
例えば視写の場面がありましたが、先生の書く字が早すぎる。早すぎるから、子ども達は先生のペン先を見ないで、頭の中の言葉を思い出して、自分で書いている。先生のペン先に全員の目を集める。ペンがゆっくり動くときに、全員の目がつながっている重さや、緊張感をひしひしと実感できるくらいになればいいですね。
D☆これはできていなかったのですが、「子どもと子どもをつなぐ」
 先生と子どもの1対1のキャッチボールは気持ちよく交わされていたのですが、子ども同士がキャッチボールをするように、子どもと子ども、子ども達をつないでほしいと思いました。
 発言者が固定していました。手を上げている人を当てて、上げていない人には無理を強いないのもわかりますが、「せんせいはあなたのお話を聞きたいな」「友だちも聞きたいと思うよ」と求めることも必要だと思います。そのためにも、先生と子どもの人間関係を、様々な場面でつくっておくことが大切なのでしょう。また、授業の中で、子ども同士のつながり、子どもと先生との関係がつくられていくこともあるのです。
 子ども同士のつながりあいの中で「学び」が生まれ、「学び」の中でつながりあいが生まれてくるのだと思います。

2010年1月3日(日)

授業研究会

 私の在職するセイビ小学校では、研修テーマが「聞ける子ども」(3年間)、「聞き合う力を育てる」(2年間)を経て、今年度は「聞き合い、学び合う子どもを育てる」と変わってきた。このテーマの推移を私は歓迎している。「聞く」という、人と人の互いの関わり方の基本から始まって、さらに子ども達のつながり合い、関わり合いへと広がり、その関わり合いの中で学習が生まれるのではないかという課題を教職員の中で共有できるようになってきたからである。
 1学期も終盤を迎え、校内や地域での公開授業がもたれる時期になってきた。私は授業後の討議会ではできるだけ発言するようにしている。言い足りなかったことを授業者に手紙で伝えることもある。特に若い人たちにとっては、なんともしつこいおじさんと思われているにちがいないのだけれど。

〈授業の感想 手紙1
Tさん、5年生の皆さん
(1)目標である「学び合う、聞き合う」の、私のイメージはこんなものです。
▼教師と子どもの1対1のキャッチボールではなく、子ども達同士のキャッチボールに広げる。
▼教師の役割は、子どもをつなげていくこと。
(2)本時の中で、
「一郎さんの気持ちを考える」の課題では、子どもが書いた文を先生に話すだけ。先生は聞いているが、他の子ども達は聞いていない。
            なぜそうなるのか、
@先生と子どものキャッチボール
A課題が、「答え」を求めていて、「考え」を求めていない。だから子どもたちは、「答え」を先生に言おうとしている(いっしょうけんめいに)。
(3)展望
 今日の最後のノートがどうなるか楽しみです。
「どうして一郎さんは、トランクを売らなかったのだろう」
この場面には、物語のテーマが集約しているように思います。友だち、一人ぼっち、初めてつながりあった仲間、さびしがりやどうし・・・。
 このノートを持って交流する子ども達の話、言葉から課題を見つけられないか。
例えば、
【一郎さんは、さびしかったから、友だちがほしかったから、カバンをしゃべらせた(発言者の名前)】
 子どもの言葉、意見、考えを課題にして、ノートを書くと、子ども達は自分の「考え」を書くようになります。それを出し合うと、自然に「話し合い」が生まれてきます。それが「討論」になることもあります。
 授業を見せていただき、今年度のテーマと大きく関わることだと思い、メモを置かせていただきました。いっしょに考え合ってみませんか。

2010年1月3日(日)

〈教材〉とは、材料のこと

 今年度も4年生の子ども達が「古川の学習、コイを育てる」に取り組む。ぜひ、古川でコイのタマゴを採集する場面から子ども達に出会ってもらおうと考えているのだけれど、今年は気温が低くて、水草の成長が遅くなり、5月末の今に至っても採集できないでいる。学年の先生達と「教材」について話し合ってみた。
 教材とは、子ども達と学習に取り組むための材料のことなんだと、いまさらながらのことを確かめ合った。
さしずめこの学習で言えば、
▼校区を流れる古川
▼そこに生息するコイと、そのタマゴ
▼子ども達の取り組みをいっしょうけんめいサポートしてくれる水辺クラブの大人たち、寝屋川市下水道課の人たち
と言うことになる。
 さてその材料を使ってどんな授業を作るのか、子ども一人ひとりの個性や、学年の集団としての課題、教師のものの見方・考え方などらが、絡み絡んで具体的なひとつひとつの授業、学習の取り組みとなってあらわれてくる。うまいことを言う人があった、「古川が校区に流れる学校は他にもあるのに、学習の『が』の字も思いついていない」と。まさに、材料はあるのだが、〈教材〉にはなっていないということである。言い換えれば、私たちの身の回りには、否子ども達の身の回りには、無数の材料が取り巻いている。教材にするかどうかは、教師や親や、子ども達の目や耳や、感性や、経験、・・・・、いったい何にかかっているというべきだろうか。

2010年1月3日(日)

「こんなことがあったよ」というお話を書く

 始業式や終業式で、児童会から代表委員の人が挨拶をすることになっている。児童会担当をしている僕は、代表委員の人が前に立って話す場面を大切にいたいと考えている。
 なんといっても、教師がマイクを握って話している時にはこそこそ周りとおしゃべりしたり、手持ち無沙汰に身体を動かしている人たちが、児童会が話し出すと、不思議なくらいに前を見つめ、話し声がなくなり、体育館が静まり返るような集中が生まれるようになる。ぼくの友だちの○○さんが話している、私の友だちのお兄ちゃんが話している、登校班の班長さんが話している・・・などといった具合に、自分の知っている○○さんの話を聞きたいと思うのかもしれない。
 また、代表委員の話し方を見聞きして、「ああそうか、話すというのはああいう具合にすることなのか」と、他の人たちが体験して、学んでくれる貴重な学習の場だと思うからだ。
 だから挨拶の原稿作りと練習には時間をかけるようにしている。僕が口癖のように子ども達に言うのは、「詳しく書いてください」と、「こんなことがあったよというお話を書いてください」ということだ。例えば、「冬休みに田舎に行きました」と書いていたら、「田舎に言った人はきっとたくさんいると思うよ。そうではなくて、『田舎でこんなことがあったよ』という、あなたにしかなかった田舎の暮らしを書いてください。みんなもきっとそれを聞きたいんだと思います。」と、言葉を掛ける。
 もちろん「間違わずに言えたかどうかはどうでもいいから、みんなに伝えようとする話し方をしよう」と、リハーサルを繰り返すことになる。
 こんな挨拶をした人があった、「ぼくは毎年冬休みは福井県の敦賀市にある田舎に行きます。しかし、田舎は山のほうなので、雪がけっこう積もってるわ、寒いわで、行くのに苦労しました。着いたらいとことゲームしたり、大人と麻雀をしたりしていました。正月になってたたき起こされて訳もわからぬまに、お金を渡されました。後でお年玉って気がつきました。ばあちゃんや、いとこの親や、おとんからももらいました。宿題は冬休み1日目でほぼ終わらせたので、楽に宿題の残りをやって、遊びました。3学期は、今までの勉強のまとめばかりだと思うので、中学へ行くための最後の勉強と思ってがんばります。あと、『性格を直さないと』と思っています。小学校ではまだいいかもしれませんが、中学ではヤバそうだからです。」

 


2010年1月3日(日)

「特別ではない支援教育を」

 支援教育についての校内研修があった。人気があって各地で引っ張りだこの超多忙な講師(らしいので)なので、4月から依頼して漸く3学期の末に開催できたという事情もあり、近隣の3校の職員も同席して共催の研修会となった。当日の朝アメリカの研究会から帰国して、その足で寝屋川に来たというくらいだから、その多忙ぶりと人気度が伺えるというものだ。
 3つのことを柱に講演された。
@1対1対応は最終段階だと考えてほしい。集団の中で、子ども達同士の関わりや学び合いを大事にしてほしい。
ALD、ADHD、アスペルガー等の言葉は忘れましょう。子ども達を一人ひとり裸のままで見てほしい。
Bだから、普段の授業を大切にしてほしい。「特別」支援教育ではなく、「特別ではない」支援教育をつくってほしい。

 正にその通りだと思う。しかし、例えば大阪においても、実際の支援教育は子どもをクラスから取り出しての1対1対応と、専門性への依存が進行する「特別」化へとますます向っている。

2010年1月3日(日)
 
多忙化スパイラル
 
 年度末を迎え各学校では総括の会議が開かれている。次年度に向けた課題として必ず出てくるのが、多忙化の問題。そのために「人」を増やしてほしいという要望である。学校現場からも、教職員組合からも要望を上げながら、わずかずつではあるが、学級数以外の「加配」教員や嘱託の教員が配置されてきた。10年前と較べても教職員の数は増えているのに、一向に忙しさは解消されない。むしろ多忙はさらに進んでいると言っても過言ではない。デフレ・スパイラルならぬ「多忙化スパイラル」に、学校現場は陥っているといった実感がある。
 ふと1月の湯浅誠さんの講演会を思い出した。最後のフロアからの「現状の教育を変えるためには」との質問に、「自分は教育のことがわかっていないが」と前置きした上で、「人数を増やすよりは、一人ひとりの担任のゆとりを作る必要がある。一人ひとりの教師に、もっと『ため』ができるようにしなければならない」と答えられた。
 私達が忘れかけていたあたりまえの要求である。正に反貧困の視点から見えてくる教育問題である。

 

2010年1月3日(日)

8歳の心が真剣に葛藤する
 
 2年生のN君は教師や友達を口汚くののしり、暴力的に物を振り回したり、教室を飛び出したり、授業の間うるさく喋り続けたりすることがある。
 パソコンの授業は楽しみにしてくれていて、先日も「お絵かき」を率先して仕上げて作品を持ち帰っていた。
 次の「カレンダー作り」のとき、思うように操作できない苛立ちからか、「おい、マツモックリ」「もうヤメタ」と声を荒げたり、実際に教室を出て行く。しかしすぐにきびすを返し、座りなおして「まつもりせんせい、おしえて」とやさしく声をかけてたずねてくる。何度かその繰り返し、彼のそばで一緒にパソコンを操作しながら、心の中で揺れ続ける変化が感じられるようになる。
 「ああ、またいってしまった」「だいすきな(担任の)先生と約束してるのに、また破ってしまった」〈もういやや、わかれへん〉〈クソッ〉「またやった、謝らなくては」「おちつかなくては」〈もうイライラするな〉・・・、まるで心の中で一人で二つの心をせめぎあっているような痛ましいまでの葛藤が伝わってくる。
 2年生、8才にしてこの葛藤を抱え続ける少年がいる。

2010年1月3日(日)

K君の論理がある

 パソコンの授業が始まってしばらくしてからK君は担任と一緒に現れた。子どもたちはパソコンの授業を楽しみにしてくれている。K君もその一人だ。そのK君が遅れてきたのだから、また「いつものように」教室で何やら問題が起きていたのだろう。
 ところがパソコンに向かうやあっという間に集中し、マウスを操りながら「おえかき」にのめりこんでいった。
 ソフトに準備してある様々な絵を貼り付けていくスタンプもあるのだが、それを使わずにペンをドラッグで手描きするのにこだわり、色彩も形も味のあるすばらしい絵を描いている。 「先生、このひし形をうまく描ける方法はないんかな?」と、傍らに開いたノートを見せる。その絵を描こうとしているのだ。
 実は、パソコン室に向かって出発しようとみんなが並んでいるときに、K君が一人いつまでも机の中や周りを捜しだし、友だちのノートを持って出ようとするので、「だめだ」とノートを取り上げると机にうつ伏せて動かなくなってしまった。「これかきたいねん」と言ったので返すと、漸く立ち上がり歩き出したということらしい。
 こんなに集中するK君を初めて見た。K君は前日に「明日はパソコンでカレンダーの絵を描きます」と言った教師の言葉を受けて、この友だちが描いていた絵を描こうと決めてこの時間を待っていたのだ。(友だちにとっては下絵ではなく遊びで休み時間に描いた絵なのだが)
 K君の学習に取り組む論理と意思がある。その論理が通らないときには教室を飛び出したり、物に当たったり、大声を上げることもある。論理が理解されたとき、学びに熱中する姿が生まれた。

2008年2月17日(日)

 現代の学校の使命は二つある。子どもを育てることと、今ひとつは子どもを守ること。

2008年2月17日(日)

授業と思想

 全国発表会の提案授業の後、体育館で授業研究会が行われ、大阪府教育委員会指導主事から授業の講評、講演があり、続いて意見交流の時間が持たれた。二人目に立った寝屋川の教師から厳しい口調で批判する発言があった。
 「子どもたちと教師が、腰を振りながら"I want to go to 原爆ドーム"と言っていたとき、気分が悪くなった。広島に修学旅行に行き、平和教育にも取り組んでいるはずの学校で、原爆ドームを笑いながら軽々しく扱うのは間違っている。」という意味の発言だった。
 前日に、繰り返し練習のとき緊張をほぐすためにも、身体でリズムを取りながら元気な声を出す場面を作ってみようと打ち合わせたものであるらしい。僕は発言者のような感想は持たなかったのだけれど、300人を超す参加者の中で、しかも批判を避ける雰囲気が一般的にはある中で、あえて発言するほどに発言者にとっては並々ならぬこだわりと思いがあって、見過ごせない重大な問題であったのだ。
 もし被爆者や家族がその場におられたら、その方たちの思いがあったに違いない。批判されることになるか、或いは子どもたちや教師の取り組む姿に拍手を送られるのか、それはわからないけれど。
 しかし、授業には思想が反映するのだということを発言者の指摘から学んだ。むしろ思想を持って授業や教材づくりに取り組まねばならないのだと思った。

2008年2月17日(日)

交流する
 
 前回の英語科授業の続きがあった。今回は、全国発表の提案授業となり、体育館での授業となった。館内に500人を越える参観者が見守る中で取り組まれた。授業者は子どもたちとのキャッチボールを復習、思い出し、繰り返し練習というように導入として使い、その後は思いっきり子ども達のテンポとリズムに任せる展開を作った。
 お互いに相手を見つけて、"Hi""Where do you want to go?""I want to go to Hokkaido""Why?" "Because I want to eat potato""Bye!"などと、コミュニケーションする場面となった。元気いっぱい歩き回り会話を続けていた子どもたちから、「先生、体育館にいる大人の人にも聞いてええかな?」と質問が飛んだ。緊張したのは、参観していた大人たちの側だ。今度は500人に見守られて自分が子どもたちとのやり取りをしなければならないかもしれない。大人の戸惑いをよそに子どもたちはのびのびと足を運び、様々な見ず知らずの人たちとのコミュニケーションを楽しんでいた。楽しみながら英語によるコミュニケーションを学んでいた。
 やっぱり子ども達のリズム、子ども一人ひとりのリズムの中で学習は営まれるのだと思った。教師と子ども達のキャッチボールだけではなく、子どもたちが交流する場を授業の中で大切にしたい。

2008年2月17日(日)

授業のテンポ
 
 英語科の授業を参観した。しっかりクラス作りができていて担任と子ども達の信頼関係の上で授業が軽快に進行していく。いわば先生と子ども達とのキャッチボールがテンポよく続く。そのテンポが崩れたときがあった。1列の5人が立って、他の全員が声を合わせて“Where do you want to go?"と質問するのに一人ずつが応える場面だった。4番目のSさんが口ごもってしまった。懸命に自分の答えを探しているのが分かる。胸の鼓動までが聞こえてきそうだ。テンポが止まった。周りの子ども達は、騒がしくならない、せかすでもなく、はやすこともせず、じっとSさんの言葉を待っていた。そしてゆっくりとSさんは発言した。いい場面だと思った。
 教師と子どものキャッチボールのテンポの中では学びは生まれない。(往々にして英語科の授業では、キャッチボールとテンポが方法として重視されている。)訓練するのに、キャッチボールは向いているのかもしれないが。テンポが崩れたとき、学びの機会が生まれている。つまり教師のテンポではなく、子ども自身のテンポ・リズムになっているのだ。
 

2008年2月17日(日)

政権交代で教育は変わるのか!?

 民主党が308議席を獲得して、政権交代が実現することになった。様々なところで「変化」が生まれてくる。では、教育の世界ではどんな変化が起こるのだろうか。
 小泉、竹中が主導した、徹底した市場原理主義の導入、自己責任論、能力主義、競争主義、評価主義・・・などの新自由主義は、自民党を「ぶっ壊した」だけではなく、すでに極端な格差を作り出し、「人としての暮らし方」までを「ぶっ壊し」かけていた。
 さてその新自由主義を克服して、これからの価値観をどこに求めようと私たちはするのだろうか。「共に」「共に学び、共に生きる」「つながり合う」という言葉がこれからの社会を展望するキーワードになるのだと、僕はそう考える。いわば、「たて」の序列化を求めた(いったい誰が求めたのだろうか。しかし誰かが求めたのだ。)これまでの10年間に対して、横の関わり合い、つながり合い、広がりを、求めるということだ。
 しかし、頑迷なる日本の「能力主義神話」は、それでもやっぱり能力主義、競争主義、評価主義と、子どもの序列化を求め続けるのだろうか。

2008年2月17日(日)

このようにしてまた1年の取り組みが始まって行く

 この日も1年前と同じように放送室のマイクを通して、全校の子ども達に向かって放送を流した―
 給食時間に失礼します。今日は皆さんにお知らせしたいことがあって放送しました。松森センセはおしゃべりだから長くなるかもしれないので、給食を食べながら聞いてください。でも耳はしっかりこちらに向けてくださいよ。
 2年生以上の人たちは、去年の4年生(今の5年生)の人たちが、コイを育てていたのは知っているでしょ。高柳や九中の方へ行くときに渡る古川で採れたタマゴなんですが、そのタマゴから孵して、1年間育てたコイをまた故郷の古川に還してあげました。
 そのときに、5年生の人たちは古川をきれいにしたいと、ポスターを作って自治会の掲示板や、川のフェンスに張ったり、ゴミ箱を作って橋のたもとに置いたり、川の中に入って、ボートまで浮かべて掃除をしたりしました。中には焼肉やさんや家を回って炭を集めて、水をきれいにする浄化装置を作って古川の中に入れた人たちもありました。
 今の5年生がいっしょうけんめい取り組んでくれたので、今年もコイのタマゴがセイビ小学校に届きました。水辺クラブのおじさんや、寝屋川市の下水道課のおじさんたちが、校区の古川に入って、水草に産み付けられたタマゴを採って持ってきてくださいました。
 今日の昼休みから、体育館の前にコイのタマゴが入った水槽を出しておきますから、皆さん見に来てください。水草の間に小さな小さなタマゴがたくさんついています。
 コイは、6月の真ん中くらいまでタマゴを産み付けています。産卵(さんらん)と言います。古川を見たら、こんなに大きなコイが(センセは今両手をうーんと広げています)50cmくらいもある大きなコイが、10匹も20匹も、もっとたくさんゆっくりゆっくり川を上ってきて、バシャーンバシャーンと音が聞こえるほど水しぶきを上げて、タマゴを生んでいるのを見ることができると思います。
 ただし一つだけ注意、絶対にフェンスを乗り越えたり、隙間から古川に入ってはいけません。とても危険です。もう一度言います、絶対に古川に入らないことを約束してください。
 長いお話になってしまいました。しっかり聞いてくれましたか。土曜、日曜のお休みの後も水槽を出しているのでどうなっているのかを見てください。これで終わります。―
 昼休みになったらさっそくたくさんの子ども達が水槽の周りに集まってきた。「どれがタマゴなん?」「あっ、ここにもあるわ」「みつけたみつけた」「かわいい?」「ほんまにこれがコイになるん?」・・・、目を輝かせて、おしゃべりが続いた。放送を聞いてくださっていた警備員さんも、交通指導員さんも、水槽のところにやってきて「また1年が始まりましたね。今年もコイの成長を楽しみに見せてもらいます。」と声をかけてくださった。
 昨年4年生の子ども達がコイを育て、自分たちの町にある古川を学習し、3月にコイを故郷に還して1年間の学習を終えたのだが、それから2ヶ月が経ってまた新たな学習が始まろうとしている。今年の4年生はどんな学習を作ってくれるだろうか。そして2年目の昨年度、地域の人たちにも子ども達の活動の話が伝わり、応援の声や協力を頂いた。さて今年はどんな地域とのかかわりが生まれることだろうか。新たな学習のドラマの出発でもある。

※『古川の学習 コイを育てる』も読んでください。(「子どもたちとつくる授業」のページの中にあります。)
 

2008年2月17日(日)

石橋式音読B

 石橋式音読のもうひとつの特徴は、その「教育的成果」の誇張の仕方にある。いわく、この音読をすることによって、「前頭葉が刺激され、脳の働きを活発にする。」「だから、学力が上がった。」「教室を飛び出していた子が席に座るようになった」「これまで集中できなかった子が、授業に集中できるようになった」「集会でもうるさくて先生の声が聞こえないような学校だったが、静かに集中して聞けるようになった。」「音読をいっしょうけんめい取り組んだ学年ほど、成績が上がっている」「もっと取り組んだ学級ほど、到達度調査でも成績が上がっている。」「その学校の校長先生や教頭先生から、そんなお話を聞かせていただく。」・・・、といった類の宣伝文句に満ちている。
 これは、教育の成果を、検証し、課題を見つけ、さらに研修していくための言葉ではない。単に、私がやったから、私のやり方でやったら、目に見えて子どもが変わりますよ、と自画自賛しているに過ぎない。そこには、学校をめぐる地域の事情も、子ども達ひとりひとりが背負う生活の現状や個人史も、教職員が子どもたちと向き合いながら取り組み続けてきた日々の実践も、すべて無関係に自分の評価だけが一人歩きしてしまっている。おそらくこのようにして、全国の学校に出向いて、石橋式音読の成果を披露しているにちがいない。
 なんだかテレビショッピングの商品を売り込むようなうたい文句で、いつか消費者センターに「効能書きとちがう、使い続けてえらい目にあった」などという訴えが殺到するのではないかと、漫画じみた想像も浮かべてしまう。これは、子どもを語る言葉ではないのだ。
 実は、陰山英男さんの「百マス計算」も、これまで述べてきた石橋式音読のことが、そのままぴったりと重なってしまうのだ。むしろ陰山氏に言わせると、石橋式音読も陰山氏が発掘し、それを本やマスコミを通して紹介した、いわば「陰山メソッド」のひとつということになる。(さすがに石橋さんもそう言われるのはいやらしく、20年以上前から、自分たちが先にやっているという実績を強調することになる。)
 ところで、橋下知事はこの石橋式音読と、陰山式百マス計算を、府内すべての小学校で、毎朝一斉にモジュールとしてやらせようとしている。繰り返し学習で学力をつけさせるということだろう。
 一方で、PISA型の学力を重視するとも言っている。しかし、石橋式も、百マス計算も、PISA型とは似ても似つかぬものであり、子ども達の「学び」を力づくで破壊してしまうものである。
 知事の構想の中では、「基礎学力」と「応用」という単純極まりない2分法に分かれていて、前者を陰山式で、後者を藤原和博氏の「よのなか科」で府内のすべての学校で実践すれば「学力」が付くのだと考えているようである。
 教育の構造、学びの構造とはそんな薄っぺらなものではない、教育の現場で無数の教職員によってコツコツと取り組まれてきた数知れない実践の歴史を、見くびってはならない。

2008年2月17日(日)

石橋式音読A

 石橋淑子さんは、音読する文章についてこう言われる。「子ども達に言葉のすばらしさを知ってほしい。だから「名文」と言われる文章を、(教師が)選んで読ませる。夏目漱石や、宮沢賢治、漢詩も読む。意味がわからなくても、何十回、何百回読むことで、その文章、言葉遣いが感じられ、意味が理解できてくる」と言う。幼稚園や保育園、小学校低学年でも、大きな声で唱和して読み続ける、読ませ続けることになる。
 文章の良し悪しや、好き嫌い、値打ちは一人ひとりの読み手によってちがっている。決して教師が決められるものでもないし、またその価値を決めるべきでもない。読み方も、ゆっくり読みたい者もあれば、早く読む人もある、声を出して読むことが好きな人もあれば、黙読したい者もある。人それぞれのスピードやリズムが、当たり前のことだけれどある。だから読書は楽しいのだ。
 一方で石橋さんが言われるように、何十回、何百回と、しかも大きな声を出して一糸乱れぬ唱和を続けることによって、やがて文章の意味が刷り込まれ、考え方や行動にまで現れることはありえるに違いない。かつて、戦前に「教育勅語」を、一言一句も間違わず、声の強さ、リズム、抑揚もすべて教師の言うままに、毎日毎日繰り返すことで、ついにその意味が刷り込まれ、いつの間にか考え方や行動に体現され、それが戦争を推し進め、敵を殺し、自らも天皇のために死ねる考え方をつくり出していったことは紛れもない事実である。
 子どもは「教育勅語」に、「どうして?」と疑問をさしはさむことはできない、自分のリズムや声の大きさで読むことはできない、またそうさせないのが教師の指導力とされていた。子どもだけではない、親も、教師も疑問を持つことも、自分の早さ、リズムで読むことは許されなかった。そうさせないのが、校長の指導力と言うことだったのか。いつの時代においても、なりふりかまわぬ強制によって、延々と繰り返される訓練は、子どもを変えるのだ。まさかそれを、「大きな声を出すことができるようになった」表現力だと解釈したり、教師の言うがままに反応する子どもの姿を「静かに聞くことができるようになった」と、学習する態度の変化と評価したり、「学力」がついたなどとうそぶくことはできないだろう。
 石橋式音読において、夏目漱石も宮沢賢治も、教育勅語もなんら変わることはない。何を選んで子どもに「与える」かがちがっているに過ぎないのだ。

2008年2月17日(日)

石橋式音読@

 校内研修で、まねび学園の石橋淑子さんを招いて職員の講習を受けた。一言で言って、こんな冷たい授業はないと思った。そもそも授業ではなく、訓練である。
 45分間、先生の言うとおりの言葉を繰り返し、先生と同じリズムで、できるだけ大きな声で発声し、先生と同じ動きをただただやり続けるのだ。途中で口を挟むことなどできない、「なぜ」と疑問を抱いたり、言葉の意味を考えてはいけない。むしろそうさせないことが教師の指導力だと言う。
 僕は耐え難い時間を過ごしていた。声を出したいとは思わなかったし、同僚たち教師が、目を輝かせて前を見つめ、先生の言葉を聞き、次第に声に力がこもり、一糸乱れぬリズムで唱和して発声して行く移り行きを、呆然と眺めていた。
 やがて気づいたのだ、「声を出せないでいる自分自身が、みんなの足を引っ張って、集団の和を乱しているのではないか」と、不安になってきていることを。そしてみんなからどう思われるだろう、仲間はずれにされないかと恐怖を感じ始めているのだ。きっと何人もの子どもが、僕と同じ思いをするのではないかと思った。
 石橋さんからは、声を出せずに、困り果てている僕の姿は見えていたはずであるがなにも声掛けはなかった。大人であるからだろうか。しかし「すべての子どもの声を出させます。それが指導力です。」と言い切る。僕のような子どもは、認められないのだ。あの恐怖感を思うと、自分だけがやりたくない気持ちを、先生に、特に周りの友達に気づかれぬよう、無理やりにでも声を出そうと思う、目立たないように口を動かすまねだけでもやろうとするにちがいない。あるいは、そんな教室には入りたいとは思わない。それもみとめられないのなら、学校へも行きたくないと言う気持ちが生まれないだろうか。

2008年2月17日(日)

福岡正信 著 『わら一本の革命』(春秋社)から
・・・そして、教育ということに関して、私はこういうことを感じています。
 戦前に一度ミカン山へ入って、自然農法を標榜したときに、私は無剪定ということをやって、放任した。私ははじめ、「放任」ということと、「自然」ということを、ごっちゃにしていたんですね。ところが、枝は混乱する、病中害にはやられるで、70アールばかりのミカン山を無茶苦茶にしてしまった。私は、そのときから、自然型とは何ぞや、ということが、常に問題として頭にあって、これだということを確信するまでに、長い間模索をしてきました。そして、やっと自然型とは、これだな、という確信を持てるようになった。自然型というものを作るようになってくると、病虫害の防除も必要なくなって、農薬がいらなくなった。剪定というような技術も必要なくなった。自然というものがわかれば、人間の知恵なんて必要ないんです。
 子どもの教育にしたって同じことです。私も初めそれで失敗したが、放任ということと、自然ということが混同されていて、放任が自然であるかのように錯覚している場合が多いんです。いわゆる放任状態にしておくから、教育しなきゃならなくなってくるとも言える。自然だったら、教育は無用なんです。・・・
 
 これらを読んで僕は、フランスの哲学者ルソーが『エミール』の中で提唱した「自然の教育」と重なるのではないかと思った。またこれまで、「自然に還れ」と唱えるルソーの教育論と、同じルソーの「社会契約説」など社会・政治思想とがつながらず矛盾しているように思えていたのだけれど、理解できるような気がしてきた。
 福岡さんはこう言う、「健全な稲を作る、肥料がいらないような健全な、しかも肥沃な土を作る、田を鋤かなくても、自然に土が肥えるような方法さえとっておけば、そういうものは必要でなかったんです。あらゆる一切のことが必要でないというような条件を作る農法。こういう農法を、私はずっと追求し続けてきたわけです。」
 「還るべき自然」とは、福岡さんにとっては、「土」であり、ルソーにとっては「社会」である、そう言っているように僕には聞こえる。

 

2008年2月17日(日)

自然農法と教育(1)



 「米や野菜作りにおいていかに人の手を省き、自然の力にゆだねるかを追求。土を耕さず無肥料・無農薬・無除草で作物を育てることを特徴とする自然農法を確立した。」という記事を読んだとき、「この人は『教育を語る人』にちがいない」と直観した。いわば「何もしないで育てるために、何をしなければならないのか」を生涯かけて考え続け、実践した人である。さっそく『わら一本の革命』を読んだ。やはり全篇を通じて、福岡さんは自然農法を熱く語りながら、同時に教育についての熱いメッセージを送り続けていた。

2008年2月17日(日)

二つのKey Word

 1学期の校内授業研を振り返ったとき、二つのKey Wordを職員が共有できるようになったことが大きな成果であったと思う。「聞き合う」ことと、「交流する」ということだ。
 2年・4年・6年が提供してくれた授業は、どれも研究目標の「聞き合う力を育てる」を掲げて取り組まれたのだが、子ども達が一人一人自分の考えや意見を発言し、交流していく中で、お互いに聞き合う姿が生まれていた。聞き合うことができるから、更に意見を発言し、交流が続けられて行く。聞き合う力を育てるために、交流する授業が有効であることがわかってきた。
 そこで提案したい。全ての教科の授業で、学習活動の中に子ども達が交流する場をつくってみてはどうだろうか。交流する場=広場=交流し合う広場。子ども達が頭も心もからだものびのび活動させる広場のようなもの。例えば算数の中で交流し合う場がある、理科の中で、社会で・・・のように。
 「交流」という言葉の定義をしておきたい―子ども達が「話し合い」や「討論」しながら、課題や問題を見つけ、主体的に解決していくような学習ではない。「ディベート」とも違う。
 いわば、もっと平易な活動。意見を出し合い、友だちの話を聞き合い、先生もいっしょに参加する。そして先生が交通整理をしながら、子ども達をつないでいく、そんな学習活動、授業である。

2008年2月17日(日)

2種類の授業

 授業には大きく2種類の形があると言っても良いのかもしれない。
@子どもと教師との関わりの中で、学習が生まれて行く授業。更に、子ども同士が関わり合い、試行錯誤し、追求しながら営まれる授業。学びあう学習。
A関わりを拒否する授業。
一問一答であったり、答えだけを求めたり。それらはむしろ、教師がトレーナーになるごとく、子どもから距離をとっていく。慎重に慎重に、気付かれぬように間を開けていく教師もあれば、最初からあたりまえのように、子どもを寄せ付けぬ教師もいる。

2008年2月17日(日)

新しい人へ

 学級通信楽しく読ませていただきました。特に「子自慢話」がいいですね。
 学級会や終わりの会で、子ども達が発言するときも、親達の会話の中でも、「子どもの悪いこと」はいっぱい言えるのに、なぜか「いいこと」は言えないものなんですね、不思議に!
 これ使えますよ、例えば「友だちのいいところ大発見」のテーマでつづり方を書いて、まず発表会をする。子どもは友だちから「いいところ」を言われて、照れたり、ニヤニヤしたり、えもいわれぬ表情を表します。そして、今度はそれを文集にしてみたらどうでしょうか。親からの受けも絶対です。
 学級通信は、子どもの物語を書くものです。実はそれは教師が自分の物語を書くものでもあるのですね。
 たくさんの物語を書いてください。「仕方なく書く」のではなく、書いた通信の1枚1枚がそのままあなたの資料となっていきます。最も生き生きとしたあなたの実践記録です。
 これからもたくさん読ませてください。

2008年2月17日(日)

学校でもIQという数字が独り歩きを始めた
 
 最近、IQという言葉やその数字を見聞きすることが多くなった。「知能検査の結果の表現法の一つで、実際の年齢に関係なく、その人の知能が何歳くらいの精神発達に相当するかという年齢尺度として使われているものです。・・・例えば暦年齢9歳の子どもが10歳の標準問題に正答できれば、その子どもの精神年齢(知能年齢)は10歳になります。今日では、精神年齢と生活年齢の比が、より一般的に用いられ、それを100倍した値が知能指数(intelligence quotient)で一般的に頭文字をとってIQと呼ばれるものです。IQ140以上が、天才または準天才とされています。」(講談社新書『LD・ADHDは病気なのか?』金澤治)
 どうも今流行の(といっても過言ではないだろう)LD,ADHDなどの発達障害の診断に使われていることがその背景にあるようだ。だから特別支援教育の研修などの折には、講師からIQの話が出たり、資料に数字が並んだりすることが起こってくる。
 しかしさほど遠くない一時期、欧米で優生思想が流行した時に「優れた遺伝子を残し、優秀なる人種を作るため」に、劣性遺伝子を絶やす目的で、断種手術が強制されたことがあったと聞いている。その基準としたのが知能指数・IQであった。深刻な反省と、障害者自らの差別糾弾闘争を経て、IQはほとんど使われなくなったのだと、僕は理解していた。たかだか50年・60年を経る間に人権侵害の歴史や反差別の闘いの意味がきれいさっぱりと忘れられてしまったのだろうか。
 ウェクスラー式知能検査(WAIS,WISC)など新しい検査方法が開発されたからよいという話ではないはずである。かつてのIQも、数字自身が優生思想を持ったのではない、人間の能力を数字に置き換えて理解しようとした人間観が優生思想を更に助長し、深刻な人権侵害を生み出したのである。そのことは新しい検査方法を使ってもなんら変わらない。
 最近学校でもIQという言葉や数字が、いかにも科学的装いを凝らして使われるようになってきた。IQに限らず数値化することで子どもの能力を分析し、理解しようとする流れが、論議を伴わず、ほとんど無批判のままに進行するようになって来た。「数値化」は、いかにも近代的ではあるけれども、それが科学的進歩であるとは決して思わない。
 子どもと関わりあいながら、子どもの能力を感じ取り、個性や、生活力や、生きる力を感じ取り、悩みや悲しみ、喜びを感じ取る力は、ますます教師の中から希薄化していると言わねばならない。なるほど「関わる」「感じる」力は、決して近代的ではないけれど、或いは時代を超えて最も豊かで具体的な「教育力」ではないのだろうか。

2008年2月17日(日)

(3)子どもを育てるためのゆとり
  
 学力世界一のフィンランドの教師と日本の教師を比べたときに、その違いを鮮明に表すものの一つが、「労働時間に占める授業や教材作りに使う時間の率」である。圧倒的に日本の教師のそれは低い。世界の先進国の中でも際立って低い。つまり授業や教材作り以外の「仕事」に多くの時間を費やしていることになる。しかも膨大な残業時間(手当てもつかない)も換算すれば、更に率は下がってしまう。
 「本来の仕事」以外の事に追いまくられながら疲れきり、子どもとの対応や保護者との対応で精神的にも肉体的にも追い込まれながら、すり減らし病を得て行く例は少なくない。僕の在職する市では昨年度休職者「小14、中7」病休者「小14、中5」となっている。休まないまでも、自分の心と体に鞭打つようにして学校に行き、高鳴る動悸を抑えたりギリギリの力を振り絞りながら子ども達の前に立っている、いつ休んでもおかしくない潜在的な数はその何倍もあるだろう。このように追い詰められながら、子どもを育てる仕事ができるはずがない。
 「子どものゆとり」が学力低下をもたらすものとして否定され、「教師のゆとり」は「サボり」と同義語のようにみなされる圧力が、日本の社会の中にはあってしまう。子どもも教師もゆとりを持つことが許されない社会とは、誰にとっても生きにくい社会であるはずなのだけれど、周りを見る余裕がないくらい競争に煽られて視野を狭くされてしまっている。
 一人ひとりの子どものことを語り合い、教材研究をしたり、授業研究や進め方の工夫を相談しあえるような、子どもを育てるためのゆとりを来年度はなんとかかんとかほんのわずかでも学校の中に作り出したいと思う。教育改革を投げ出して、「まだ授業時数」を増やそうと考える文科省に期待できそうにはない、ましてや現行の府独自の35人学級ですら「無駄遣い」と切り捨てようとする橋下知事には不可能だろう。
 学校現場の知恵と努力を発揮する以外にはない。教育という一人ひとりの未来がかかり、そして国の未来がかかる大仕事を取りむには、余りに貧相な現状である。


2008年2月17日(日)

(2)「6年間の学びの系統樹」

 来年度に向けてぜひめざしたいと考えているのが、学習に取り組む子ども達の姿や表情を思い浮かべながら、教職員でにぎやかに教材作りに取り組むことのできる雰囲気や体制である。
 今年度も新たな教材が生まれ実践された。@校区に流れる古川ではここ2・3年、春になると鯉が逆戻り産卵するようになった。川を掃除したり保全に努めながら生態系の維持に取り組んできた水辺クラブの人達と、古川をフィールドワークしていた4年生が出会い、鯉の卵を孵した稚魚を学校が預かり育てることになった。そして半年後、育てた鯉を生まれ故郷の古川に還してあげた。
AJICAの青年海外協力隊員としてマダガスカルに赴任されていた方を講師として招き、5・6年生の各クラスで、マダガスカルの自然、環境、経済、文化など様々な背景を考えながら、「開発援助」について考えあい、話し合う学習に取り組んだ。
 例えば総合学習で「6年間の学びの系統樹」を作ってみるのだ。さしずめわが校ではこうなるだろうか、1年:学校たんけん、おじいちゃんおばあちゃんに教わる伝承遊び、2年:校区たんけん「わが町のお宝、こまった大発見」、3年:わが町の商店街、働く人たち、4年:校区を流れる古川の学習、鯉を育てる、5年:日本の産業、開発援助を考える、6年:開発援助を通して世界の国を考える。日本を考える。
 子ども達が先輩達が取り組む学習活動を横目で見たり、友達同士の噂を聞きつけて、「来年○年になったら・・・ができる」「はよ○年になりたいわ、・・・したいねん」などと、目を丸くして学習することを期待し楽しみにしてくれるようになったらいいなと思っている。
 しかし、教材を作るために資料をひっくり返して捜したり、調べたり、話し合ったり、試行錯誤して試したり・・・、そんなことをじっくりとできない教職員を取り巻く忙しさが現実にはあってしまう。「本来の仕事」に専念するための時間をどう作るのか、これもまた来年度に向けた総括の課題として大きな問題となる。

2008年2月17日(日)

 そろそろどの学校でも、来年度に向けた総括の話し合いがもたれる時期になってきた。僕はわが校の総括会議で、2つのことを提起したいと考えている。一つは授業研究のテーマ・目標を一歩進めることと、二つめは教材作りについてだ。

(1)「聞ける子ども」から、「聞き合う子ども」へ

 
 「聞く」ということを職員皆で話し合って、06年度07年度の授業研究の目標にしたのが「聞ける子どもに育てる」なのだが、どうも教師の側から子どもの側に一方的に押し付ける片道通行のような気がして、納得できないままに来てしまった。子ども達よ、聞くことはとっても大切なことだ、聞けないのは君たちが悪いんだ、分かったかな、そう言ってるようで教師の側の問題が問われてこないのだ。
 しかし実際の校内での授業研では、1年生から6年生までのどの授業でも、教師と子どもとの聞き合う姿、子ども同士の聞き合う姿が生まれ、その関わり方、深まりについて研修会での議論も進められてきた。
 学習するとは、聞き合い、学び合うことなのだと思う。来年度は、そのことをはっきりとさせて校内の授業研究を取り組んで行きたいと考えている。

2007年9月17日(月)

 生活・暮らしを見つめることができれば、問題が見えてくる。問題が見えれば、どうすればよいのか、解決に向けた課題が見えてくる。課題が見えれば、取り組みの方法、工夫を様々に考えることができる。

2007年9月17日(月)

なぜ英語なのか?B

 寝屋川では英語科と呼ばずに「国際コミュニケーション科」と呼んでいる。英語でなくても良いはずである。例えばフィリピンから渡日した子どもが在籍したとき、お母さんを講師に招きフィリピンのお菓子作りの料理教室を開く。初めて触れる味や作り方、食べ方に歓声を上げながら簡単な挨拶や名前のタガログ語を学ぶ。教室で使ってみる。共に過ごし学び合いながら国際理解を深めていく取り組みはこれまでもたくさん生み出されてきた。「ちがいを豊かさに」という教育の思想や実践の作風も生み出してきた。
 実利的に考えれば、経済発展が著しく、今後も資本の投資や貿易が更に拡大するだろう中国語を選ぶ方が有利だろうし、歴史的に付き合いが長く最も近い国とのつながりを考えるならば韓国・朝鮮語を選ぶのが自然ではないだろうか。
 その実利性、合理性も顧みられずに英語(実はアメリカ語)を教科にまで押し上げてあたかも「必修」であるかのように下ろしてくる教育政策は、アメリカの経済力と軍事力が世界を動かし支配するというグローバリズムの政策・戦略を無批判に受け入れ、先頭に立って支える日本の政府が必然的に導き出したものではないだろうか。英語=アメリカ語を獲得することが世界で活躍することになるという盲信の果てでもある。
 当のアメリカ自身が、イラク戦争への批判や経済政策の失敗などによって、グローバリズムに対する批判が拡大し、大きく方向を変えようとする政治的潮流が生まれている。実際には、世界の半数とも言われるイスラム世界があり、アメリカをはるかに凌ぐ経済発展を遂げる中国があり、大きな変化を遂げようとするアジアの国々の胎動がある。国際化、国際理解を進めるためには、いろいろな国々や文化、人々と関わろうとする興味や関心や態度を子ども達の中に湧き起こす学習活動が取り組まれなければならない。今の「英語の勉強」が、「入試に役立つ・有利になる」というなんとも矮小化された理屈を親や子ども達の中に蔓延させないだろうかという危惧を僕は抱いている。実際小学校から英語塾に通う者が、「英語科」の誕生以来飛躍的に増えてしまっている。

2007年9月17日(月)

なぜ英語なのか?A

 強いて言葉にすれば、国際化とは人と人とのつながりを作りながら、「横」への広がりをめざすのに対して、英語を勉強する動機はむしろ、つながりを断ち切りながら「上」をめざしていくようなイメージを浮かべてしまう。
 中国や韓国、他のアジアの国々でもそうではないのだろうか、或いは日本以上に「上」を求める動機が強いと言えるのかもしれない。ステイタスを上げるために、暮らしの現実から抜け出すために、自分の国から抜け出すために、ひょっとして自分の国を捨てるために・・・。
 「最近の韓国は英語ブームで、金持ちの家庭では、子どもを中学くらいからアメリカやカナダに留学させたがる。韓国では英語力が出世の鍵を握っているとされているからだ。このとき、ほとんどの母親が子どもに付き添って渡航してしまうため、父親はぽつんと一人、家に残されることになる。これが『雁パパ』だ、つまり『渡り鳥の父親』たちだ。海外で暮らす妻子にせっせと仕送りしながら、母国にとどまって孤独に働き続ける父親達。」(斎藤環「思春期ポストモダン」幻冬舎新書)作者の意図は若者の「ひきこもり」の問題を論じているのだけれど、現象として現れている英語教育の一面が見れるような気がする。

2007年9月17日(月)

なぜ英語なのか?

 僕の在職する寝屋川市では、文部科学省の「英語特区」の指定を受けて3年になる。しかしいまだ「なぜ英語でなければいけないのか」というわだかまりが解けないままでいる。
 「グローバル化がますます進み(僕にはそのようには思えないのだけれど)、子ども達が将来世界の舞台で、仕事に、或いはボランティア活動に活躍するために、なんといっても一番通用する英語を学ぶことは必要である。少なくとも無駄にはならないだろう。中国や韓国、その他のアジアの国でも、日本よりも進んだ英語教育が以前から取り組まれてきた・・・」、等々という話も、小学校で英語の授業を導入するに当たっての説明で得々と聞かされても来た。
 英語を使うことができれば、仕事でも、学問でも、ボランティア活動でも、その世界を更に広げることができるだろうという論理は、僕のような頭の固い人間でも理解するのだが、何か大切なものが抜け落ちているようでストンと心地よく気持ちの中に納まってくれないのだ。

2007年9月17日(月)

“Kさんへ 研究授業ご苦労様でした”

 今日は出張で討議会に出られません。あわてて走り書きしました。
 子ども達とあなたとの「つながり」が生まれている空気を感じました。先生のお話の中に、いっぱいクラスの物語、一人一人の物語を読み取ることができました。これまでの授業の中で、友だちの関わり合いを出し合い、話し合ってもきたことが土台になっていることの表れでもあると思います。しかし(別の言い方をすれば)子ども達の発言の中では語られなかったということでもあります。
 そこでいくつか気のついたこと、
@課題(あなたはテーマといっているのかな?)について
 課題が「なぜ?」とか「質問」になっていて、「答え」を求めるものになっている。「一人ひとりの(あなたの)考え」を求めるものになっていない。
 ・(前時の課題)「なんで末治は庄太にさからえないのか」からの続きの課題は、(子どもの意見が出ているのだから)「一人ぼっちにされそうで、末治は庄太に言えなかった」(A君)の課題にしたらどうだろうか。そのA君の考え方について、ノートを書き、話し合ってみるのです。
 ・(本字の課題@)「どうしたら末次は勇気を持って庄太に『いや』と言えただろうか?」
 ・(本字の課題A)「庄太は末治のことを友だちって思ってる?」
どの課題も、「なぜ?」を聞き、「質問」するものでした。そうなれば当然、
A子どものノートが「答え」を書くものになっていきます。事実、先生に聞かれた「問い」の「答え」を考えて書こうとしていた。だから文章が広がっていきません。友だちの考えや意見を聞いて、友達の考え方を考え、自分の意見や考えを耕し、作るためのノートがほしいと僕は思います。そして自分の考えを発言してほしいのです。
B本読み 表現読みを取り組んだらおもしろいですよ。本の持ち方、立ち方、からだの構え、リズム・・・等々、HOW TOもいろいろあるはず。また一緒にやってみましょう。
 5年2組の物語が生まれて来ています。とってもいい雰囲気でした。

2007年9月17日(月)

“Kさんへ 「課題」について”

 「末治が庄太に言えないのは分かる。一人ぼっちになるのがこわかったから。僕もクラスで一人ぼっちになるのが怖くて言えなかった。」(○○)
 子ども達がノートを書き、話し合いを進める中で、こんな意見が出てきたらいいなと思います。松森だったら迷わずに、これを次時の課題にしてノートを書き、話し合いに掛けたいと思います。
 「○○さん(の・・・)について」になると学級会の課題(議題)になりかねません。ちょっとヤヤコシイ話になって恐縮しますが、物語の『教材』を教師が選んで使う意味は、@作者の思想を学ぶ、A作者の思想を使って学ぶ、B作者の思想と、子ども達一人ひとりの自分の経験、ものの見方・考え方と重ねながら学ぶ、ことではないでしょうか。
 学習が進む中で、子ども達の追求が『教材』を離れ、子どもの書いた『ノート』が教材になったり、あるいは子どもの『生活』自身が教材になることももちろんあるのですが。

2007年9月17日(月)

“聞く”ということ B
 
 4年生と1年生の校内研究授業があった。どちらも若い人が担任するクラスで、(@にも書いた)子どもを育てるために試行錯誤を繰り返しながら日々いっしょうけんめいに取り組んでいる学級なので、参観する僕達にとってもたくさんのことを学ぶことができた研修会となった。
 4年生は、算数で括弧を使った式を学習する授業なのだが、本時の目標として、算数の世界の仕組みを理解することと共に、「・いろいろな考え方を見つけて友だちに分かるように伝えようと努力する、・友だちの発言を自分の考えと比べて聞こうとする」という目標が掲げられていた。
 一つの問題を子ども達は、いろいろな考え方で解き、それを表す式を黒板に書いていく。ひとりの説明に対して付け足しがあったり、反対意見があったり、質問が出されたりと次々に意見がつながっていく。
 聞いている子ども達も身を乗り出している。「ええ、なんでぇ」「わからへんわ」「もういっぺん言うて」「よう聞こえへンかった」「(説明する人に)頭でよう見えへん、体どっちかに向けて」・・・、「ああ、分かったわ」「なるほど」・・・、質問や意見に混ざって、それに負けないくらいたくさんのため息やら、ぼやきやら、実にいろんな言葉が聞く側の子ども達から漏れてくる。
 「聞く」とは、ただ静かに座っていて、お喋りせずに、手遊びもせずに、先生の顔を見ていることではないのだと改めて思った。

1年生は、国語で「ちがい」を比べる説明文の書き方の授業に取り組んだ。先生の話を聞きながら、一人ひとりがワークシートに書きこんでいく。カリコリとしっかり握ったエンピツが動く。そして「今からグループに分かれて、自分の書いたものを読みあいッこしてください、友達の書いたものを聞きあいッこしましょう」と先生から言われて、班の机に移動した。
 いい場面だと思った。いわば先生の話ではなく友達同士の話を聞き合う場面が作られた。しかも自分達がいっしょうけんめい書いたつづりかたを読みあい、聞き合うのだ。本当に子ども達はいろいろだなと思う。遊んでしまう子は一人もいない、でも黙って自分の番を待つ人、友だちに目をつなぎながら聞く人、声を掛ける人等々。僕のいた近くの班では、二人、どう見ても聞こえにくいだろうと思われる人があった。そのとき、「ゴメン、もういっぺん読んでみて」「聞こえへんかってん」と声を出す人がいなかった。なぜ言わないのだろう。たくさんの先生に囲まれて緊張したのか、たまたまおとなしい人たちが集まっていたのかもしれない。しかし敏感に反応しながら聞く子ども達の姿が、友だちの言葉を更に引き出し、また自分の考えを深めていくのだと思う。
 さて、積極的な聞く姿をどうしたら身につけさせることができるのだろうか。「静かにしてくれたら教えやすい」という先生にとって都合の良い子ども達の聞く姿ではなく、子ども達が学習を深めるための「聞き合う」力である。

2007年9月17日(月)
 
 教育改革というブランド名の衣装を纏った教育ファシズム

2007年9月17日(月)

“聞く”ということ A

 僕は研究授業などで教室に入らせてもらったときには、発言している友だちに目をつなぎ、「友だちが何を言おうとしているのか」を聞き取ろうとする子どもの姿を見たいと思っている。教師と子どもの関係でも同じである。先生は子どもの前に立ってたくさんのことを話す。例えば朝教室に入っただけでも相当に長い話をしているにちがいない。
 その時、子ども達が「先生は何を言おうとしているんだろう」と聞ける子どもであってほしいと思う。つまり先生の話す言葉に期待を持っているのだ。それまでに子どもと教師が培ってきた関係がそうさせるのだ。
 一方で、教師が多くを話し、最後に「だから、プリントを出しなさい」「だから今日は休み時間外へ出てはいけません」という結論だけを聞く子どもであってほしくない。結論だけを聞くことを僕は「聞く力」とは呼ばない。
 教師が喋るだけ喋り、子どもが結論だけを聞く関係が日常化してしまうと、子どもは必ず、「先生どうすればいいんですか」「プリントが終わりました、次は何をすればいいですか」と、自分のするべきことを先生に尋ねるようになってしまう。自分の考え、判断で行動することができなくなってしまう。

2007年9月17日(月)

“聞く”ということ@

 いつも子ども達との新たな出発のとき、学級開きなどの機会を使って「聞くことをお互いの大切な約束にしよう」と呼びかけている。
 何とか伝えたいのでいろいろな工夫もしてみる。入学式が終わった後、教室で初めて対面した1年生には、ミッキーマウスの人形を登場させ、声色を変えながら言ったものだ。「松森センセはねやさしいけれど、約束を破ったときはとってもこわいんだ。今日は最初の約束をしたいんだけど、それは友達やセンセの話をしっかり聞くということです。みんな約束できるかな?」と話しかけたりする。子ども達はみんな目を輝かせて「ハァーイ!」とまっすぐな手を上げてくれる。もちろん次の日から爛々とした目を集中させた授業が展開するというわけには行かないのだけれど。
 自分が話をするときに、友だちが手遊びしていたり、そっぽを向いて知らんぷりしたり、ふざけたりすればつらい気持ちになるし、話したいと思わない。その話が生活をくぐった重さを持ったり、何とか伝えたい思いに駆られて勇気を奮って語り出したりしたものであればあるほど、相手が聞いてくれなければ哀しくなるし、ついには涙をこぼさせてしまうことだってある。それを横から見ていた人は自分と重ねあわせ、同じ目にあいたくなくて、決してみんなの前で話そうとは思わなくなるにちがいない。
 反対に、真剣に聞いてくれる相手があれば話したいと思うだろう。耳を傾けてくれる学級の集団があれば、学級会でも授業の場でも「発言したい」と思うし、頭や心の中に渦巻いている言葉が引き出されてもくる。
 「聞く」ということは相手を大事にすることであり、ひいては自分が大切にされることである。関わりあうことの基本なのだと思う。

2007年9月17日(月)

授業の目的は?


 新任教師のクラスに時折入らせてもらっている。いっしょに授業することが楽しくって仕様がない。授業の中で、一人ひとりの子どもの表情や姿、その変化が見えるからだ。
  授業中教室を飛び出していた人が、今日は机に座ってエンピツを走らせている。先生をにらみつけ、一言も返事をしなかった人が、先生の話に笑顔をこぼしている。
 気づいたことがある。授業の目的は、「教える」ことではなくて、「子どもを育てる」ことなのだ。「教える」ことばかりに目を奪われて、子どもを見失った授業が横行してしまってはいないだろうか。
 今この教室では、子どもを育てる授業が試行錯誤の中進められている。

 
 ※4年生の教室に入ったとき、「僕が初対面の人に手渡す『松森センセの名刺』を作ってくれないかな」と頼んでみた。子ども達はすぐに描き始めてくれた。僕は前で椅子にすわってモデルをしながらいろんなことを話し続ける。「センセには見せへんで」と言いながら、友達の絵を覗いたり、見せ合いっこしながら、あちらこちらで人垣ができ笑いが渦巻いている。全員の子ども達が描き上げてくれた。いずれ劣らぬ傑作ばかりである。世界で1枚しかない僕の名刺を時々掲載してみようと思う。