トリュドー元カナダ首相は、粋で華麗な政治家であった。

                            
(モントリオール発)---元カナダ首相、ピエー ル・エリオット・トリュドー氏は、木曜日(9月28日)に80歳で亡くなった。カナダの公用語を二カ国語とし、公正な社会実現を目指 すなど、激しい個性と確固たるヴィジョンをもって、国民をあまねく魅了したのだった。

このモントリオール出身の華麗な大富豪は、1968年から1979年そして1980年から1984年まで首相を務めた。
博識であり、人当たりがよく、横柄といえるほどに華麗であった。国民の反政治家感情から沸き上がった「トリュドー狂」の波に乗って、1968年に初めて首 相に就任しが、1979年から1980年にかけての9ヶ月の中断を除き、以後16年間政権を維持した。

今年の初めに、カナダ通信とブロードキャスト・ニュースの編集者・キャスターによる投票で、トリュドー氏は、「カナダ・世紀の時の人」 に選ばれた。
「かれは、カナダの政界における巨人でした」と、トリュドー政権で財務、法務、エネルギー大臣を務めたマルク・ラロンド氏は言った。

首相になるとすぐに、トリュドー氏は、その貴族的な物腰と溢れるばかりのエネルギーでカナダ国民を魅了した。彼は、英語と仏語の二カ国 語を公用語としながら、強力な中央政府のもとに国がまとまっている国家像を擁護した。
そのためトリュドー氏は、住民のほとんどが仏語を話すケベック州分離独立派からは、最大の敵対者とみなされた。

ケベック州の分離独立を求めて1980年に実施された住民投票において、60対40で分離独立派が敗北し、完全な勝利をおさめることが できたのは、トリュドー氏の強力な事前キャンペーンによるものであったと、政治評論家は分析する。

ブライアン・マルローニィ氏が首相を務めていた1990年代初頭に独立運動が復活し、1995年の第二回独立住民投票に辛くも勝利する までの間、トリュドー氏の政治的闘争のおかげで、ケベック州分離独立派の力を弱めることができた。

また、この闘争により、ケベック州の730万人の若年有権者層は、国に対するアイデンティティに疑問を抱くようになった。
「私は、ルネ・レヴェック(註1)の息子であり、同時にピエール・トリュドーの息子でもあります。このことがケベック州のかかえているジレンマです。」 と、ケベック州マターヌで学校顧問を務める、33歳のアンドレ・ゴベイユ氏は言う。
トリュドー氏は、物議をかもした「1980年国家エネルギー計画」でだまされたと信じているカナダ西部の石油成金たちと、ケベック州分離独立派の双方か ら、在職中、ほぼ同じようになじられた。
国家エネルギー計画は、ちょうど石油の国際価格が高騰している時に、国内石油価格を厳しく規制するものであった。(カナダ西部の)アルバータ州では、"中 央カナダ人による西部襲撃事件"と呼んで、いまでもその内容に憤慨している。

しかし、州が寄せ集まった以上の存在がカナダである、とする確固たる認識を貫き通した一人の政治家に対して、その政敵さえも不承不承な がらも賞賛を与えていた。
「トリュドー氏と私は、国の将来については異なるヴィジョンを持っていますが、私は、彼の高度な知性、情熱、国民の利益を最優先させる姿勢を賞賛する者で あります。」と、保守党前カナダ首相ジョー・クラーク氏は語った。「氏は、われわれの国を変革し、勇気づけてくれました。」

昨年の十月、トリュドー氏が80歳を迎えたとき、政治評論家、解説者そしてカナダ国民の行った、氏に対する評価の概要は、政治的経歴の 点と、いまだ払拭されない不可解な問題に対する、賞賛と不満の感情が入り交じったものであった。

彼は、1982年に英国からカナダ憲法を取り戻し、権利の憲章と自由の憲章を初めてもたらした。しかし、トリュドー氏は、平時における 市民的自由の権利(註2)を一時的に制限した最初の首相でもあった。

1970年10月に、ケベック分離独立主義者の過激派が英国外交官を誘拐し、監禁状態にあった州閣議大臣を殺害したときには、トリュ ドー氏は戦時処置法を発動した。それによって、警察は何百人という人々をこれといった嫌疑もなく拘束することができたが、モントリオールの通りでは、町中 を軍隊がパトロールすることになった。

この1970年の「10月危機」の最中に、この法律に基づく命令を下した目的を達成するためには、どの程度までのことを考えているの か、と質問されたトリュドー氏の答えは、彼特有の気迫に満ちたものだった:「今の私の様子をよく見たまえ」

最も容易に見分けがつく人物として、カナダ中によく知れわたり、有名であるにもかかわらず、トリュドー氏は、引退後はスポットライトに 当たることを常に避けた。

近年では、モントリオール・マウントロイヤル町内の急な坂に面した彼のアール・デコ調の自宅から、下町にある法律事務所まで徒歩で通勤 したり、人目につかない社交クラブに現れる姿を目撃することができたが、インタヴューの要請に対しては丁寧に辞退していた。

「私たちとの関係においてさえも、父は、とても遠い感じのする人でした。どうにかこうにかしながら、ある種の孤独な人生を送ったのだと 思います。」と、今年の初めに放映された、カナダテレビネットワークのドキュメンタリー番組で、25歳になる息子のサッシャは語った。

しかし、トリュドー氏のさっそうとした振る舞いは、誰からも慕われた。彼は、カナダ議会下院ではいつもスーツの襟に赤いバラをつけてい た。かつて女王陛下の後ろで、ピルエット(バレーのつま先旋回)を演じているのを激写されたこともあった。

引き締まったスポーツマンタイプで、カナダの北のはずれでカヌーを楽しんでいた。1984年に引退するときには、粋なクラシック・ス ポーツカーに乗って去っていった。

「祖国に対する楽天的でロマンティックな考え方を、氏は私たちに示してくれたのでしたが、氏が表舞台から去るとともに失ってしまいまし た。」と、キャサリン・アノーさんは語ってくれた。彼女は、トリュドー氏とその思想が、カナダ人のある時代に与えた影響について取材したドキュメンタリー 番組のディレクターである。

トリュドー氏は、1919年10月18日、裕福なフランス系カナダ人実業家とフランスとスコットランの血を引く母との間に生まれた。法 律の学位を取得し、ハーバード大学、ソルボンヌ大学、ロンドンスクール・オヴ・エコノミックスで学んだ後、世界旅行に出かけた。

カナダに戻ってからは法律を教えていたが、1965年に初めて自由党の下院議員に当選した。1967年から1968年には法務大臣と なったが、中絶、同性愛に対する法的制約をなくした。

首相となった時には独身の大富豪だったが、トリュドー氏の私生活はうわさの種にされた。歌手のバーバラ・ストライザンド、女優のマー ゴット・キッダー、キム・カトラールらをパーティーにエスコートしたり、クラシック・ギタリストのリオーナ・ボイドとは7年越しの関係が続いた。

1971年51歳の時に、29歳年下のマーガレット・シンクレアと結婚した。1977年に結婚生活が破綻するまでに3人の息子をもうけ た。マーガレットはローリング・ストーンズとナイトクラブでパーティをしているところを世界中に報道されたりした。

トリュドー氏と前妻は、(カナダ西部の)ブリティッシュ・コロンビアを徒歩旅行中に23歳で雪崩で亡くなった息子ミッシェルを弔うため に、1998年に一時的に再婚した。

トリュドー氏の友人によれば、彼は、残された2人の息子と、憲法学者デボラ・コインとの間にできた8歳の娘のサラのために一身を捧げて いたという。

(註1)
レヴェック
 Ren) L)vesque (1922‐87)
カナダの政治家; Quebec 州首相 (1976‐85); ケベックの漸進的独立という案が却下されたため, 自由党を離れて Parti Qu)b)cois を結成 (1967), 1976 年州議会選挙で勝ち,政権を取った

(註2)
市民的自由の権利
(通例civil liberties£)(米国の権利宣言(the Bill of Rights)のような法律によって保障された)市民的自由政府による不当・専横な干渉を受けることなく,言論,集会などの慣習上の権利を行使できる個人 の自由,権利.

原文はこちらです:
http://www.cnn.com/2000/WORLD/americas/09/28/canada.trudeau.obit.reut/

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