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和田 薫(わだ かおる)
1962年、山口県下関市出身。1981年、東京音大作曲科入学。作曲を伊福部昭、池野成、有馬礼子の各氏に、指揮を汐澤安彦氏に師事する。在学中に日本交響楽振興財団作曲賞などに入選。1984年度全国吹奏楽コンクールに『吹奏楽のための土俗的舞曲』が課題曲として選ばれる。
同大学卒業後渡欧。1988年には『オーケストラのための民舞組曲』がマルメシンフォニーオーケストラによって初演。その後ヨーロッパ各地で再演を重ね、1990年にはグラモフォンBISレーベルから世界同時発売される。
帰国後はアニメ、映画などの映像音楽の他、「題名のない音楽会21」(テレビ朝日)のレギュラーアレンジャーを務めるなど編曲の分野でも活躍中。また2003年には21年に及ぶ創作活動の節目として個展「喚起の時」を開催した。Kaoru-Wada.com_和田薫OFFICIAL WEBSITE URL=http://www.kaoru-wada.com/
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取材 出口寛泰 構成 豊田朋久
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○ 池野先生に師事される事になったきっかけからお聞かせください。
和田 僕は最初、伊福部昭先生に付きたくて、当時、伊福部先生が学長をされていた東京音楽大学に進学したのですが、そこで作曲理論の講座を持たれていたのが池野先生でした。
作曲理論というのは、作曲科の学生全員が受ける必修講座で、オーケストレイションや、たとえばストラヴィンスキーとドビュッシーの作品のピアノリダクションを作ったりなど、理論的な事と実践的な事を踏まえたような授業ですね。
○ この作曲理論の講座で、池野先生が「作曲で食べていこうなんて、とんでもないことですね。」とおっしゃったというエピソードを和田先生のHPのコラムで書かれておりましたが、このことについて詳しくお聞かせください。
和田 作曲理論の講座は毎週金曜のお昼から、伊福部先生がいつもゼミをやってらっしゃるB館の11階でやっていたのですが、はじめて授業を受けにそこへ行ったら、ドアが開いた瞬間、池野先生から「あなたですか和田さんは。伊福部先生から聞いておりましたっ」といった感じで言われました(笑)。
僕は当時マーラーが好きで、とにかく大編成のオーケストラが書きたというのがあったのすが、当時、現代音楽やっている学生というのは、ピアノとか弦楽四重奏をちょこちょこと書くのが好きな人が多かったんですよ。ですから、でかいオーケストラが書きたいなんていうのは珍しかったんでしょうね。「あなたですか。マーラーが好きなのは」と(笑)。
それからは随分可愛がっていただきました。大学生というのは、ご存知の通り、授業をさぼる人間が多いもので、一応授業もそこそこするのですが、後はもう個人レッスンみたいな事をしていただいていたんです。日頃書いた作品を見ていただいたりとか、そんな中で、「作曲で食べていこうなんて、とんでもないことです。」なんてお話も聞きましたね。池野先生としては、やっぱり大学に入って来て意気揚揚としている学生が多いものですから、気を引き締める意味合いもあって「志が高いのはいいけれど…」という意味で、おっしゃったんだと思いますよ。
○ その言葉を聞かれた時はどのようにお感じになりましたか。
和田 その時は「作曲家では食えないのか?!」って思いましたよ(笑)。ただ食えないのかっていう事よりは「そういうもんか」という思いの方が強かったですね。まあ実際、社会人にもなってなかったし、世の中で作曲家が作曲家として食って行くという事自体がピンと来ませんでしたからね。まだ若かったし、やりたい事だけをやりたいという意識が強かったんですよ。まあ、そういった話を授業が終わって、そのまま喫茶店に行って聞かせていただきました。ですから毎週金曜日は終日、池野先生と一緒で、教室を出てからの方が色々なお話が噴出しましたね(笑)。