

| 西暦 | 年齢 | 出生から学生時代のできごと |
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| 1958年 | 0歳 | 3月7日の朝7時過ぎ、山高く谷深き宮崎県高千穂町で産声をあげる。 父親が産婆をよびに山越え谷越え町まで走る。命名、工藤雅康。 |
| 1959年 | 1歳 | 初夏、家の2階から落下。頭打っても泣かず。記憶、このときより開花す。 |
1961年 | 3歳 | 曽祖父死す。泣かず。母親の胸の中で泣いている1歳の弟をみて、「なぜ、自分は泣かないのか。こんどひいばあちゃんが死んだら絶対泣いてやる。」と思ったらしい。人は死ぬと知る。土葬。深く掘られた穴を見て、寝小便とまらず。 |
1964年 | 6歳 | 押方小学校へ入学。4キロの山道を元気に歩いて登校。曾祖母死す。「今度こそ泣いてやろう」と思っていたが、本当に死なれてみると悲しくてたまらずワンワン泣いてしまった。何年も心に穴があいた。「錯覚」という言葉を知る。 |
1970年 | 12歳 | 押方小学校卒業。成績、一貫して悪し。「5」は音楽のみ。6年生まで毎日寝小便。母、悔し涙に暮れる。「何事もスロー。仕事は丁寧だが、時間内にやり遂げられない」(担任の先生の話)いまもなにひとつ変わっていない。原稿きわめて遅し。 |
1970年 | 12歳 | 高千穂中学校入学。相変わらずウンコちびる。母、泣く。成績、中の上。身長138センチのチビすけ。なかなか大きくならない・・・と母また泣く。で、体操部をやめバスケットボール部へ。 |
1971年 | 13歳 | 生徒会書記に推薦され立候補、当選。中学時代の輝かしい経歴はこれのみ。 |
1973年 | 15歳 | 高千穂中学校卒業。「中学時代はただのアホ。やばいことはしゃべらない」と本人は頑なに口を閉ざす。「地獄の季節」(新潮文庫)で書いているくせに。 |
1973年 | 15歳 | 高千穂高校入学。ズルするコツを覚える。授業を抜け出し、弁当を持って裏山へ通う日々。「これ以上はもういえない」と本人。けっこう自慢げにしゃべっているくせに。 |
1974年 | 16歳 | 祖父死す。朝起きたら、じいちゃんは今日の午後あたりに死ぬと思った。僕は中間テストがあるから学校へ行くといって出かけた。帰ってみると庭で炊き出しが始まっていた。死んだんだと思った。じいちゃんの真っ白い顔に頬ずりした。優しかったじいちゃん。僕の守り神。 |
1976年 | 18歳 | 高千穂高校卒業。3年のとき授業中に突然なにやら叫ぶ。黒板に詩のごときものを書きなぐる。 |
1976年 | 18歳 | 熊本市に下宿。予備校へ。本人は予備校時代の1年間が面白くてたまらなかったようだ。プーキシン、ニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキー、クロポトキン、レーニン、トロッキー、バクーニン、万葉集、上田秋成、川端康成、埴谷雄高、田村隆一、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、マッコイ・タイナー、徘徊、火の玉見物、そしてついに幽霊と遭遇する。この夏3歳のころからずっと一緒に育ってきたスピッツのラッシー死す。ばあちゃんと弟と3人でずた袋にラッシーの亡き骸を入れ、畑の柿の木の下に埋めた。帰省するたび畑に行く。僕の守り神。 |
1977年 | 19歳 | 法政大学文学部哲学科入学。キルケゴール研究(本当?)。探検部入部。10年先輩に、のちに高山に『霖雨』(「火花」の原題)を連載させる岡村隆氏(現「望星」編集長)がいた。酒の飲み方、挨拶の仕方、女の扱い方(?)等、親から教わることのできぬ人生の薫陶を受ける。探検部は僕の宝。ほんとうの仲間。 |
1978年 | 20歳 | 初春、山スキーによる厳冬期根釧原野横断。左足に凍傷。NHKの「ニュースセンター9時」で放送される。学生団体連合の執行副委員長に。学生運動に足を踏み入れる。夏、学生会館地下室で、北条民雄「いのちの初夜」に震撼す。 |
1979年 | 21歳 | 夏、利根川全流踏破行。 |
1980年 | 22歳 | 夏、西表島原始生活実験。 |
1981年 | 23歳 | 法政大学中退(本当は授業料未納で除籍)。母をまた泣かせる。「飲むな飲むなと叱り叱りて母の注ぐ納戸の奥の夜の酒の色」(要確認)という若山牧水の歌を口ずさむ。三鷹市にある製薬会社に入社。7ヶ月で退社。どうも社長とケンカしたらしい。 |
1982年 | 24歳 | NTV映像センター嘱託。日本テレビ運動部にADとして出され、スポーツニュースを担当する。ところが、生放送には欠かせない正確な秒読みがまったくできず、不始末と事故を繰り返す。自律神経失調、飲酒の日々。子供のころから時計がまともに読めないらしい。「時間というものに対する哲学的アレルギー反応だ」と本人はわけのわからないことを言っている。「腕時計もできない」そうだ。広報部へ移り少し回復。 |
| 西暦 | 年齢 | 書くことが仕事になってからのできごと | 1984年 | 26歳 | 夏、ある人物からのたった一本の電話によって、大下英治氏と新宿の料理屋で引き合わされるハメに。「明日から来い」といわれる。どんなものを書いている人なのか、どんなことをすればよいのかもわからず大下事務所へ。「人身売買みたいだった」。 以後、怒涛の量産作家のもとで丸八年間働く。のちに「火花」を担当する藤代勇人氏(当時「コスモスの木」編集者)と出会う。 |
1987年 | 29歳 | 事務所の慰安旅行で大下氏、中国へ連れて行ってくれる。初めて北京、西安、上海をまわる。 |
1992年 | 34歳 | 独立。大下氏、壮行会を新宿の沖縄料理店にて催す。8年間で担当した本の数、なんと44冊!「あんなに仕事をし、あんなに叱られ、あんなにたらふく食わせてもらったことはなかった。リアリズムのすごさを骨の髄まで教わった。僕の財産。」 |
1993年 | 35歳 | 「死者が語る佐川急便事件」(「プレジデント」2月号)で注目される。 |
1994年 | 36歳 | 東海大学病院安楽死事件を取材した「ドキュメント安楽死」(「新潮45」2月号)を一挙110枚で発表。注目される。 |
1995年 | 37歳 | 「いのちの器」を双葉社から処女出版。本が届けられたとき、妻と抱き合って泣く。親しい若手編集者が事務局となって、出版記念会をアルカディア市ヶ谷でひらいてくれた。このころ飛鳥新社に移っていた藤代勇人氏と再会、北条民雄を書きたいと告げる。藤代氏は出版部長だった梅澤秀樹氏に高山を引き合わせる。梅澤氏は「ぜひ書いてくれ」と出版を引き受けた。 |
1996年 | 38歳 | 「霞ヶ関の権力者たち」(講談社)を上梓。 「惨殺された富士フィルム専務が遺した手紙」(「Views」95年1月号)で第2回雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。 |
1997年 | 39歳 | 神戸で酒鬼薔薇事件起こる。神戸に通い続ける。「とてつもない衝撃だった。革命的な事件だと思った」。厄入り。 |
1998年 | 40歳 | 「地獄の季節」「『少年A』14歳の肖像」(以上、新潮社)を相次いで上梓。「『幼稚園児』虐待犯人の起臥」(「新潮45」3月号)を発表。大阪、堺市で起きた通り魔殺人事件の犯人(少年)の名前を実名で書く。少年法に違反するとして名誉毀損で訴えられる。岡村隆氏が編集長をつとめる「望星」4月号から「霖雨 北条民雄の生と死」を連載開始。翌年8月号までの長期連載となり、好評を博す。連載終了時、大宅賞作家の佐野眞一氏と記念対談。 |
1999年 | 41歳 | 「少年A『 家族の風景』」(「新潮45」98年7〜9月号)で第5回雑誌ジャーナリズム賞を受賞 8月「霖雨」を大幅に改稿、加筆し、「火花 北条民雄の生涯」(飛鳥新社)を上梓。40本近くの書評に取り上げられ絶賛を博す。「'99今年最高の本」(ダカーポ)で2位、「1999年度ベスト10」(本の雑誌)で5位となる快挙!。 |
2000年 | 42歳 | 2月29日、大阪堺市の通り魔事件で逮捕された少年(当時19歳)の実名記事・顔写真の掲載をめぐって、(「新潮45」98年3月号)損害賠償を求められた控訴審で、逆転勝訴。「信じられなかった。嬉しいというより、もしかしたら自分はとんでもないことをしでかしたんじゃないかと思って、これからは口をつつしもうと緊張してしまった。訴えられたときよりずっと緊張した」厄明ける。 4月13日、第31回大宅壮一ノンフィクション賞の選考会にて「火花」が受賞作に決定。しかも満票!!知らせをうけた高山、「あ、あ、あ、あ、あ、あ、ありがとうございます。」と言ったまましばらく立ち上がれず。東京会館にて記者会見。それから朝の5時までみんなと飲みまくる。この日、手回しよく受賞後第一作となる「愚か者の伝説」(講談社)出来上がる。 |
2002年 | 44歳 | 高千穂に帰省の歳、多忙な日々を過ごす傍ら、「鬼降る森」(「望星」連載中)でおなじみの「てっちゃん」にそそのかされ、いなば酒店の障子に即興でうたを詠む。・・・・「一睡の夢」 |
2003年 | 45歳 | 3月。いなば酒店のオリジナル焼酎として、本人の自筆をラベルにした、芋焼酎「一睡の夢」発売。「火花」並みの?好評を博し、絶賛発売中!! |
2004年 | 46歳 | 6月。本人の自筆をラベルにした焼酎第二弾、てづくり米焼酎「鬼八〜きはち〜」発売。「一睡の夢」に並び好評を博し、かの角川春樹氏にご愛飲頂く。 |
2005年 | 47歳 | 台風14号で鉄橋が倒壊し運休中、廃止を余儀なくされそうな高千穂鉄道の復興に向けて熱血奔走中!! |
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