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『カーマ・スートラ〜愛の教科書〜』
PARENTAL
ADVISORY
EXPLICIT CONTENT
R指定


rekha
  監督:ミラ・ナイール
  脚本:ヘレナ・クリエル、ミラ・ナイール
  美術:マーク・フリードバーグ
  撮影:デクラン・クイン
  衣装:エデュアルド・カストロ
  編集:クリスティーナ・ボーデン
  音楽:マイケル・ダンナ
  制作;リディア・ディーン・ビルチャー、ミラ・ナイール
  製作総指揮:ミチヨ・ヨシザキ



indira varma & ramon tikaram
出演/
マヤ:インディラ・ヴァルマ
タラ:サリター・チョウドリー
ジャイ・クマール:ラモン・ティカラム
藩王ラジャ・シン:ナヴィーン・アンドリュース
ラサ・デヴィ:レカー

英印合作 / 115分 / ビスタサイズ / ドルビー / 1996年公開









そもそも、若い女性向けの映画として宣伝された為に大コケしてしまったのではないかと
つくづく感じました。本作を通しで5回も鑑賞する一般人は私だけだと思いますので、
この説には相当の説得力があります。何せR指定のエロ映画ですからね。

原題は「 Kama Sutra : a tale of love」で、インド公開時の題名は「Tara and Maya」。
インド題名は主人公姉妹の名前をそのままタイトルに持ってきた訳ですが、
直球とは云え、むしろ原題よりもそちらの方が的を得ています。
根本的にカーマ・スートラ(性愛の教典)を題材にした内容ではないので、
物語の焦点は「主人公姉妹の確執」に集束、それを2時間かけて紐解く合間に
もったりとした速度でオッパイが出たり、陰毛が映ったり、オケツを爪で引っ掻いたりします。
ただ、そういった性交の場面が随所に散りばめられてはいても、肝心の性交相手(男)が
ロマンティシズムとは程遠い態度を常にブラブラさせるため、
感情移入で性交映画を享受しがちな若い女性は、観ていても面白くないですよ。この映画。
そもそも「性愛の教典」ではなく「性技そのもの」を題材に選ぶのなら、
その明と暗を織り交ぜて展開すれば深みが増すものを、脚本家は何故だか
「技と心」を分けて考えている為に、性技を追求する者=ロクな心の持ち主ではない
と云う本末転倒な結論を導くばかりで。
よって全編「性に溺れた者へのしっぺ返し」を強調した結果、
まるでカーマ・スートラとは「インドの性呪術」的なスノビッシュが鼻につき、
制作者の意図を少々疑いたくもなります。

監督兼共同脚本のミラ・ナイールは、カーマ・スートラ原本の内容を
「セックスの体位を記した部分は、ほんの一部です」と、深く理解しているにも関わらず、
映画の中では「体位の紹介程度」に留めてしまった愚は、一体何事なんでしょうか。
同時に、セックス場面ばかりが気取って描写されているのは、もしや監督、
気取ったセックス映画を撮りたいだけなのでは? 詰まる処、その言い訳として
カーマ・スートラ原本の存在を、オイタの権威付け程度に用意した形にも思え。
ちょっとケチを付け過ぎでしょうか。
しかし、こればかりはレカーの哲学に反するんですよ。
実際の彼女は立身出世や復讐の為に不倫を繰り返した訳ではありませんからね。


本作でのレカーは、主人公女性に性愛の手ほどきをする教師役。当時42歳。
監督がレカーを起用した理由は「英語が流暢で、インドでの知名度が高いお色気女優ならば
実のところ誰でも良かった」と云うもの。
正直にも程があります。傷ついちゃうじゃんあの娘。結構ナイーブなのにね。
でも本人は一発でOKしたそうです。実生活では朝8時に起きてコップ8杯の水を飲み、
そのあとに胡座をかいて瞑想に耽るのが日課のレカーは、つまり、本作での教師と
同じ様な生活をしてる訳です。唯一違う点は、瞑想の後にチョコレートを爆喰いするか否か。
おまけにレカーの家は「植物のツタが部屋中に絡みついている」と云う代物なので、
本作の教師が住む家とまんまおんなじです。

瞑想中のラサ・デヴィ(レカー)

←こんな感じですね。
 まさに地でいく役柄です。


それまでに170本以上のヒンディー映画に出演した彼女でも、実際の自分自身の性格
(つまり、性愛の何たるかを日夜能動的に研究/実践している超異性好きな性格)とは
シンクロする役柄を長年得ることができずに、心底ゲンナリしていたそうです。
よって「本作の役柄を得た時には本気で喜んだ(※レカー・インタビューより)」
と云うのも肯けます。恐らくガッツポーズもしたでしょう。
普段笑わないあの顔が微笑む瞬間だって想像できます。まるで「あの女はセックス好き」
と長年に渡り陰口を叩かれてきた彼女の、「セックスは好きだけど遊びじゃないのよ
と云う反論が盛り込まれた作品に、今回出演できる訳ですからね。しかもプロの教師役で。
これはもうタダの麻雀好きがプロの雀師として認められる様な栄誉です。
これからは堂々と麻雀できますよ。徹夜でやってもプロならOK。毎晩やっちゃうんだから。
そんなレカーの微笑みが想像できます。
もちろん深読みOKです



〜映画完成後の反応〜


それは惨憺たるもので、世界中の観客から「駄作」の烙印を押されました。
ハードなエロ映画を期待する男性にとっては消化不良この上無い作品であり、
無論、エキゾティックなエロス世界を期待する女性にとっても、それは同様。
出演した子役の少女は実家の近所で石を投げられ、監督のミラ・ナイールも
社会派監督としての経歴にケチがつき「撮らなきゃ良かった」と云うのが本音でしょう。

監督が本来意図していたものは、性奴隷として受動的なセックスしか知らない女達と、
それを当然の事として受け止める男社会、に対する「目を醒ませお前ら」と云う、
渾身込めて吹き放った毒矢みたいな「映画」だった筈。
ただ、その為には「男ども女ども」に観てもらわなければならない事を
非常に意識し過ぎ、性交&ヌード・シーンでの気負いと気取りがミッチリと張り巡らされて、
計5回鑑賞した私としては、5回とも異様な息苦しさを感じた次第です。
今、説明していても息苦しい位ですから、読まれる貴方も相当息苦しいでしょう。

こういった気負いは、監督自身のインタビューでも顕著にみられ、いわく
「本作によって社会に一石を投じたい」と云う社会派ドキュメンタリー作家ならではの意地。
今までの様に、ただセックスを傍観するのではなく、今回は「する側」の視点から
性を紐解いてみようと撮影に着手。舞台は16世紀のインド。斬新な切り口です。

なのにフィルムが大きく空回りしちゃいました。

それは、カーマ・スートラ原本の存在をドロッとした男女関係の間へと強引に挟み込んだ為、
主人公男女がストレートに交わること自体(本来の目的)を困難にさせたのでしょう。
まさに本末転倒な、原本を「性技のマニュアル本」程度に留めたゆえの計算違いです。
そして、更に致命的な計算違いというのは、
せっかくレカーと云うもんのすごい存在を得ながら、
なぜ「性技のマニュアル本を説明するだけ」の役柄にしちゃったの、んもー




俺だったらそうはしないよ


レカーもやる気満々だった以上


おけつの一つや二つは


勿体ぶらずに見せてくれる筈だし


何よりも90年代のレカーは


突拍子もつかない表情を


思考と同じ位のスピードで


表出させる術を心得たんですよ


監督の指図など必要ないくらい


ゾクッとする唇を濡らし開いて


愛の在処を教えてくれるから


当ページの最初の写真なんて


編集しながらウットリしちゃった






もう
ウットリ












主演ではなく端役、かつ結果的には、お色気女優のイメージばかりが
いいように利用されてしまった感の作品、とは云え、
レカー本人としては今でも気に入った役柄のひとつだと、明言しています。

内容全般を通して「他者を利用する」ことばかりが目立つ不甲斐なさは、
制作者自身の考える「映画を使って何かを批判したい」と云う
前つんのめり的な姿勢が、作品その物をつまらなくさせたのでしょう。
絡みつくツタ制作当初の頭の中では完璧だった、しかし
映像/映画化した時点でフィルムが空回りした、
その程度の事です。駄作ではありません。
5回観れば解ります。記憶の中で初めて完成する映画。
それが本作です。
それが愛の真意でしょう。
つまらない概念は捨てて下さい。

映画で愚痴る時代は終わったんですよ、スノビッシュ。



〜追伸〜

 れかーはほんとにいいおんな






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