
| 1, | 中世前期 |
| 2, | 田村氏の三春入城 |
| 3, | 田村梅雪(顕基)の小野城入城 |
| 4, | 田村隆顕の時代 |
| 5, | 田村清顕の時代 |
| 6, | 伊達政宗の登場 |
| 7, | 清顕と周辺勢力との戦い |
| 8, | 田村清顕の死去と田村家中の分裂 |
| 9, | 小野城落城 |
| 10, | 田村家の廃絶とその後 |
| 11, | 田村梅雪、右馬頭の最期 |
| 資料 11, | 田村梅雪、右馬頭の遺産 |
| 夏井川と専光寺、町民体育館に挟まれた小野町役場西側の小高い丘は、天正年間(1570年代頃)、戦国時代の奥羽列強の中で、その存在を大いに誇示した「小野城」があった。 天正17年1月5日(1589)に、岩城常隆の3000の軍勢を相手に戦い、ついには落城するまで田村梅雪斎、右馬守清通父子がこの地域を治め、その家臣団やその末裔が現在の小野町をはじめ、この地域の礎を築いてきた。 1、中世前期 鎌倉時代から、室町中期まで、小野の保は、南奥の諸将によって支配されていた。特に、白川氏の進出が目覚ましく、嘉吉年間(1441〜44)の頃、白川直朝は絶大な勢力を築き上げていた。直朝は周囲の国人の紛争に介入し、いわき、石川に勢力を伸ばし、会津や宇都宮、那須、佐竹といった一族の内紛を調停し、陸奥南部から北部へ権力を行使していった。 直朝の子、政朝の時代にもこの威勢は継承され、文明6年(1474)政朝は岩城下総守親隆と兄弟の契約を結び、岩城氏を影響下におき文明16年(1484)には、赤坂、大寺、小高氏の石川一族の三氏を石川一族から分離し、白川氏に改姓し、家紋も改めさせている。また相馬隆胤、田村盛顕らとも連携を強めていた。 こういった白川勢力の拡大の中、この勢力と結んで実力を伸ばして行ったのが三春系田村氏であった。この田村氏(平姓田村氏)は田村直顕、盛顕父子の時代に、田村の庄内きっての有力国人として、戦国大名田村家の基盤が出来たと伝えられるが、小野の保はこのころまだ白川直朝の影響下で石川、岩城など諸豪族の勢力圏の接点として、常に時代の波に動かされていたのである。 2、田村氏の三春入城 小野城主田村梅雪、右馬守の田村氏一族の平姓田村氏が郡山の守山から三春に入城したのは、盛顕の子田村義顕代の永正元年(1504)若しくは、永正13年(1516)の頃である。 盛顕の時代は、庄内統一をすすめ、つぎの義顕は、政治的、軍事的拠点である居城の造営を図るべく、三春の大志田山を選定し築城を行なった。 政治的、軍事的な面の他に、阿武隈山系の砂鉄を利用した鉄の利用を図るべく近接した三春に移ったという説もあり、その遺跡は田村の阿武隈山系各地に鉄の精錬の吹き穴として多く残っている。 3、田村梅雪(顕基)の小野城入城 義顕は三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次子憲顕を船引城主に、そして三子の顕基(梅雪)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に触手を伸ばし、掌握しつつあったと思われる。 文明14、5年(1482)頃から大永5年(1525)頃まで岩城下総守常隆は勢力を伸ばした。常隆の娘と義顕の結婚したのが明応から永正初(1492〜1504)頃であり、この結婚により当時友好関係にあった娘婿の義顕に小野の保を譲り、義顕の三子顕基=顕定(梅雪)が岩城常隆の攻略した小野城の小野左右衛門の嗣子として小野に入城したという。そして戦国時代の混乱の中で、田村顕基とその子右馬守はこの小野城を拠点とし、列強の中で田村家の南の要害である小野城を守り、この地域を治めていった。 那須記によると、岩城下総守常隆が小野の保に侵攻し、小野右衛門の小野城を攻略し支配下においたとあるが、大変興味深い事に、この時の小野右衛門は、敏達帝(神武天皇から三十代)の五代 征夷大将軍 陸奥守小野永見の系で出羽竜雄二男広隆五代、大蔵介祐隆二男祐安二十八代也とされており、坂上田村麻呂の東征の折、副将軍としてこの地にきた小野永見の子孫ということになる。 そして、この小野永見の子は、815年(弘仁6年)に陸奥守に任ぜられた小野岑守であり、その子小野篁は小野小町の父である。つまり、それまで小野城は代々小野小町につながる者が支配してきたと考えられる。 4、田村隆顕の時代 義顕の子、隆顕の時代には、伊達勢力の台頭とその周辺勢力である相馬、二階堂(須賀川)、蘆名(会津)佐竹(茨城)、石川、岩城、畠山(二本松)の勢力の中で、隆顕は、北が現在の二本松、西は岩瀬郡今泉村、郡山市大槻町、熱海、湖南、東は常葉町、南は小野町、郡山市田母神までに至る庄の支配を成立させた。 5、田村清顕の時代 隆顕の子、清顕の時代にも、父隆顕と同じく周辺の諸勢力と拮抗し、特に、勢力を伸ばしてきた佐竹氏の仙道進出に、蘆名氏と協同して対抗する。元亀2年(1571)7月、佐竹義重が矢吹町に出馬すると、蘆名氏と協同で棚倉を攻撃した。さらにこの年、清顕は平田村小平城(小平大膳)を攻略した。これより先、元亀元年(1570)清顕は蓬田隠岐守に奥山の地(平田村蓬田周辺)を与え、石川方面の安定を図っている。 天正年間に入ると蘆名氏との連携はくずれ安積郡をめぐって対立し、佐竹勢力、蘆名勢力を背景とする二階堂、石川との対立、やがて白川、岩城とも敵対行動を取るようになる。天正5年(1577)、そして天正8年から10年にかけ岩城常隆は小野を攻め、さらには安積郡の諸舘主が田村側より離反し、田村氏は苦境に立たされる。 6、伊達政宗の登場 こういった周辺の諸勢力との緊張関係の中で、天正7年(1579)清顕は、一人娘「愛姫」を伊達政宗に嫁がせ、清顕の妻の実家である相馬方との友好を画策し、田村家は伊達氏、相馬氏の助勢を得て、なんとか北方の脅威をなくす事を狙う。 この時、米沢の伊達政宗に輿入れする愛姫に侍従として飯豊舘主(通称鴨カ舘)郡司豊前守の娘おさき、船引の永谷舘主永谷豊前守の娘おさとが従って行った。 7、清顕と周辺勢力との戦い 天正12年(1585)清顕は大内定綱(現在の岩代)を攻めたが、4度にわたる戦いに、敗北を期してしまう。5度目は、清顕自ら馬を出して攻めたが、8月12日、清顕の弟の田村善九郎友顕まで討たれ敗れてしまった。 そして、その機に乗じて9月13日、岩城常隆が小野城に攻め入った。岩城勢は小野町の赤沼(吉鳥屋と言う所)の山上に陣を構え、三坂越前守(いわき市三坂の城主)を先陣に激しく攻めたてた。対する小野方は、田村右衛門大夫隆信、右馬頭清忠、大越紀伊守信貫が赤沼にて善戦し赤沼加賀守小野彦七郎が首数5〜60討取るも討負けて、赤沼の城(小塩舘)に篭る。 さらに10月、常隆は、軍勢3,000余騎にて小野城を攻めたてた。右馬頭をはじめ小野城側は良く防ぎ戦った為岩城勢は一度引き上げて、谷津作に陣を構えるが、相馬義胤の軍が、岩城常隆の不在を狙い岩城に攻めこんだため、岩城常隆は小野を攻めるのをあきらめ退却をするしかなく、小野城はなんとか守られたのである。 天正13年8月27日、田村勢は伊達政宗勢の力を借りて大内定綱の小手森城(現在の東和町)を攻陥し、小浜城を放棄させ北の脅威をなくすことができた。 8、田村清顕の死去と田村家中の分裂 その清顕が天正14年(1586年)10月9日に死去する。清顕は一人娘愛姫を伊達政宗に嫁がせたものの嗣子がなく、田村家臣団は清顕の後室の実家である相馬氏方の相馬派と、清顕の娘(愛姫)の婿である伊達政宗につく伊達派に分裂する。 清顕亡き後、清顕の妻を守護し田村月斎、橋本刑部少輔、田村梅雪、田村右衛門大夫の4人にて田村家を動かしていく事を清顕の遺言を含め決定するが、伊達方と相馬方との狭間の中で国を二分する事になり、伊達方についた田村月斎、橋本刑部、相馬方についた田村梅雪、右馬頭親子との対立は決定的となり双方の後ろ盾を力に、主導権争いが表面化していった。 まず、天正16年4月(1588)、百目木城と筑館、小手森城を預かっていた石川摂津守の息子の石川弾上が相馬方に走って小森城に篭り、田村梅雪、大越紀伊守が呼応して相馬義胤が動き、5月12日、三春入城を図るが橋本刑部らによって阻止されてしまう。これによって15日から伊達政宗も相馬党を攻め、相馬義胤は相馬に帰り、伊達党と相馬党の動きが鮮明になる。 伊達が佐竹、蘆名との和義に石川、岩城両氏の調停により成立すると伊達は田村家を掌握するために動き出し、清顕の戦死した弟である田村善九郎友顕の子 孫七郎に田村家の「顕」と政宗の「宗」を与え宗顕として三春城にいれ、清顕の後室は船引城に移された。このときそれまで船引城にあった田村右衛門大夫隆信は小野へ移る。 こうして、三春での覇権争いに敗れた梅雪、右馬守親子の相馬党は小野城に入り、大越城には大越紀伊守顕光が籠城し、田村東部の反伊達、反三春派が形成された。 さらに、この事態を収めようとして、天正16年8月5日(1588)、伊達政宗本人が三春城に入り17日までの間 小野攻め、小野仕置を指揮することになる。 天正16年9月に橋本刑部にあてた梅雪ら反伊達田村党の寄証文と、同時に、伊達政宗の寄証文まで書いて結束を図る反伊達田村党への田村家出入り禁止の書状があるが、その中には現在この地域に根付いている家名が非常に多い。 二つの書状に記載された名前はほぼ同じであり、関連の資料も付け加えておく。 伊達政宗書状 (田村家への出入禁止の書状に記載された氏名一覧) 田村梅雪斎顕盛 田村右馬頭清忠 父子並 小野与力 田村兵部人政顕 郡司豊前守敏良 飯豊鴨カ舘舘主 愛姫の侍従おさきの父 天正17年7月3日下枝城攻めの帰路討死 郡司雅楽頭敏貞 郡司豊前守の嫡子 天正17年7月3日下枝城攻めの帰路討死 猪狩中務人親満 野内伊予守正兼 城下衆 高山蔵人助清実 会田遠江守重信 小塩舘主 天正11年赤沼無量寺の仏像を修理し中興開基といわれる 吉田越後守信綱 吉田将監 包貴 今泉山城守行隆 天正17年5月19日門沢の戦いに活躍、飯豊源松山洞円寺の開基 熊谷下野守直光 神又久四郎房親 鹿股(神俣)城主 大越紀伊守信貫 大越城主 大竹築後守秀延 阿生田舘主 先崎主水介徳近 大倉舘主 塩釜神社の御幣を運んだとされる。 城代衆(三十六騎衆) 春山隼人佐忠顕 西牧帯刀 貞苗 山神 西牧館主 大江左衛門尉輝氏 阿部筑前守忠英 逸見刑部人清高 田母神十郎正堯 草野加賀守直常 塩庭 草野舘主 村上掃部頭義高 村上河内守忠総(信) 二瓶主膳 豊房 槻木内舘主 吉田躑躅 直寛 吉田石見守信弘 吉田宮内少輔赴(元)久 中条越前守光国 国分左京太夫信通 根本若狭守泰重 富沢丹波守匡次 中野道満(入道)景安 皮篭石舘主 宗方左近 康久 宗方内蔵介定英 荻野杢之介泰時 大塚尾張守経玄 鈴木左衛門忠暁 鈴木外記 清則 塩田監物 屋政 草野大学 清光 宗方丹波守時広 吉田入道 直寛 佐藤五郎 常成 郡司内膳 道綱 塩釜神社の御幣を運んだとされる。 郡司玄蕃 屋満 郡司大膳 頼行 先崎周防守常可 宗方弾正 家継 村上源一郎義房 吉田和泉守光広 この前後の様子を追ってみると、 1579年 天正7年 冬 清顕の息女「愛姫」、伊達政宗に嫁ぐ。 船引 永谷の永谷豊前の娘 おさと と 飯豊 鴨カ舘の郡司豊前の娘 おさき が侍従としてついて行く 1586年 天正14年 10月 9日 田村清顕没 田村家中 相馬方と伊達方に分裂 長雲院殿前光録雲岳松公大居士 1588年 天正16年 5月12日 相馬義胤 三春入城を強行するが伊達派に阻止され失敗。 5月15日 伊達政宗、田村へ侵攻を指示、 伊達党、相馬党の争いが決定的になる。 6月3日 伊達党船引城に出兵。 5日 伊達党大越城を攻撃 小野、鹿俣久四郎軍、大越紀伊守顕光に加勢、伊達党撤退。 このころ、郡山方面で、伊達勢と佐竹、葦名、白川、石川、岩城連合軍との動きが 活発になり、小野、大越、鹿俣(神股) の討伐ができなかった。 7月4日 義胤、常葉を攻める。 7月16日 伊達と佐竹、葦名が石川、岩城の調停で和議が成立し、伊達勢が優勢になる。 8月 3日 清顕夫人、三春城より船引城に移され、 清顕の弟氏顕(善九郎友顕=天正12年大内との戦いで戦死)の 息子の宗顕(孫七郎)が三春城主として三春城に入る。 8月 4日 夜 田村梅雪、右衛門清康以下田村譜代の相馬党が一斉に三春を退去して 右馬守の小野城に入り、両派の決裂は決定的になる。 8月 5日 政宗、田村家中の今後を指示するため、三春城に入り、9月17日で滞在する。 9、小野城落城 1589年 天正17年 正月 2日 岩城常隆 小野へ進攻。谷津作湯之原で2日から激闘し小野城が正月5日に落城する。 そして、ここで右馬頭親子は切腹をするが、(田村郡史ほか関連文献) 後の伊達家等の文書によれば、降服して岩城につき、伊達勢と戦うことになる。 9日 岩城常隆が田原谷を攻め、侍百騎その他雑兵4〜500の首討ち取り、 24日 鹿股(神股)の城を攻め、千余りの首を落とした。さらに、小野新町の城を攻めようとするが、 右馬頭らは父梅雪と共に降伏し、常隆の軍門に下る。 (奥陽仙道表鑑) この間の記録については、いずれか確証はないが、いずれにしても、 田村右馬頭、大越紀伊守らは この頃から岩城の勢力側に身を置いたことに間違いないと思われる。 これにより小野城の相馬党田村家中は岩城常隆の岩城方となり、 岩城勢を背後に反伊達の田村一族として伊達勢と戦うことになる。 4月20日 鹿俣城に岩城勢が攻め、伊達勢が放棄し明渡す。 小野、鹿俣に岩城勢が進出し、大越以東は完全に岩城勢背景とした反伊達勢の 田村一族の手中に帰する。 5月 伊達政宗 安積在中の蘆名勢を討つ。 5月9日 政宗の会津進攻に対応して、佐竹、岩城、相馬が田村領に侵略。 門沢氏、伊達の加勢の将兵1000余が門沢城の防戦に努めるも、激戦の中、三春に退却。 6月 5日 伊達政宗 会津摺上原に蘆名勢を大敗させる。 6月11日 伊達政宗、黒川城(会津)に入り、伊達成実ら重臣に3000の兵 を付して三春に派遣する。 7月 3日 岩城常隆が下枝城(現在の郡山市中田町)に進攻。 田村、伊達勢は激しい攻撃に耐えた。そして攻めあぐんで引き上げる岩城勢を追撃し、 下枝肥前守という剛の者が、しんがりを務めた 相馬党田村一族の田村右馬守配下、田村清康右衛門大夫隆信(家系図参照)を 田村の逆臣として切り掛る。右衛門もこれまでと引き返し、50余騎の主従共々討ち死に。 小野勢はこれを含め以下104人討ち取られる。 この中には、伊達政宗に嫁いだ愛姫の従女となって伊達家についていった「おさき」 の父である飯豊館主の郡司豊前守その子雅楽助も含まれていた。 この時、岩城の郎党松本善十郎が取って返し、進む敵兵を一槍に突き貫き 大勢を追い払ったため、他の岩城勢は引き返す事が出来たとされる。 10月20日 政宗、南奥に覇権を確立するために、須賀川の二階堂家を攻める。 21日 政宗、二階堂衆の保士原江南斎らの伊達に内応する条件とした田村梅雪父子の赦免と 旧領小野の地の宛行を約する。 26日 須賀川城落城し、二階堂家は滅亡する。 (このときの模様が須賀川たいまつ灯しとして後世に残る。) 11月4日 政宗の叔父である石川昭光(家系図参照)が伊達に服す。 12月1日 伊達、岩城間の和が成立。岩城常隆は田村領を返却し、 小野一族一統は田村家中に復帰する。 10、田村家の廃絶とその後 豊臣秀吉の全国統一が完成されつつある中、南奥の諸将もその後の奥州仕置をへて 豊臣の時代へと入っていく。 1590年 天正18年 3月23日 田村梅雪は赦免され、小野の地を安堵されたことへの御礼として、 会津黒川城の伊達政宗に参上する。 8月 9日 豊臣秀吉、会津黒川城に「奥州仕置」のため入る。田村の城地は没収され、 田村衆は田村の地を去るか、土着するかする事になる。 田村領は一旦没収された後、秀吉から伊達政宗の家臣の片倉小十郎景綱に与えられ 伊達政宗の支配下に置かれた。 11、田村梅雪、右馬頭の最期 田村郡史等によると、天正17年の正月の岩城常隆に落城された際に城主らは切腹したとの伝えがあるが前述のように伊達家の記録に天正18年の3月23日赦免され田村家に戻った御礼に伊達政宗に参上した旨の記録がある。 その後、田村家が廃絶となり家中が分散する中で、小野城の田村梅雪、右馬頭の最期についての記録はないが、梅雪、右馬頭が開基となった牧牛山普賢寺には 文禄元年(1592)正月5日付けで 小野城主 田村右馬頭 象王院殿春林甫公禅定門 妻 王臺院殿花窓容公禅定尼 子 槿 栄 童 女 梅 顔 童 女 夢 幻 童 男 乳母 妙窓禅定尼 雅楽助 追腹 道 供 禅 定 門 雅楽助嗣子 追腹 道 林 禅 定 門 次の正月6日付けで 田村梅雪 願行院殿喜峰悦公大居士 妻 青連院殿花顔春公禅定尼 の過去帳が残されている。 田村家廃絶と一連の戦いの中で、敗れた田村梅雪親子一族の壮絶な最期がうかがわれる。 その後、田村一族は離散し、ある者は三春城主となった片倉小十郎景綱に召抱えられたり、会津蒲生家に仕えたものもあったが、後に伊予宇和島藩が創設されると田村家臣団の多くは召抱えられ四国へわたった。 宇和島藩が創設されたとき、伊達藩の古くからの家臣団を温存し、田村家中を派遣したものと思われる。 現在、宇和島には田村郡の古い地名などが多く用いられ、田村の地から多くの人間が移ったことを物語っている。 他の者も、嫡子はそれぞれの支配地を引き継ぎ農民や商家として地元に土着し、弟は、伊達諸家に身を寄せたり分散してしまった。後の文書の中に(田母神旧記)分散した者の様子がうかがわれ仙台、相馬、秋田、米沢、予州宇和島、などに在住する旨の記載がある。後の三代ぐらいまでは先祖の墓参りなどで行き来をし出身地を訪れる武士も多かったのである。現代の社会と比べてみて も興味深い部分である。 この田村一族の動きの中に登場する家名の多くが400年を越える現在、この地域の中で、田村在住、又は田村出身者の多くに見受けられ、この田村一族の家臣団の流れが現代に汲んでいると思われる事に大変興味をおぼえる。 領主が変わり、田村の時代が終わって豊臣、徳川、そして明治、大正と時代が変わっていっても、地域の人間がたくましくその地を守り続けて来た。 世界の多くで、民族が争い敗れれば国を追われ、民族の移動が当然の動きの中で、国を支配するものがその地域に根ざした人々を活かしながら治めてきた日本のこうした形に驚異を思える。 これ以後、秀吉の時代から徳川の江戸時代となり、新たな時代の中でこの地域も揺り動かされるが、歴史の中に田村梅雪、右馬守の名前も含め田村家の記録が出てこなくなる。そして小野城は、この後、徳川家康による、元和元年(1615年)の一国一城政策によって、正式に廃城となってから今日まで、人々の口から忘れられ、今日に至っている。 しかし、いずれにしても田村入道梅雪斎、右馬守父子の小野城の時代が、この地域の現在の基盤を築きあげたことは間違いなく、重ねて記しておきたい。 以上、中世時代のこの地域の歴史について述べてきましたが、多くは小野町史等の文献を参考にさせていただきました。 中世のこの時代は、ともすれば地域の人に忘れられてきたが、実は、この時代が現在の小野町を作った大きな礎となっていたことに注目し、改めて田村梅雪、右馬頭親子とその家臣団に目を向けていただき、再評価すべきではないかとの思いがあり執筆に取り掛かりました。しかし、多くの資料が名前や呼び名が異なったり素人の者には大変困難な執筆になりました。一部には文献等に不鮮明な部分への個人的な見解も含まれていますが、この時代の先人への思いの中でご理解をいただければと思います。 資料 11、田村梅雪、右馬頭親子の遺産 このほか、この地域の田村家との関わりについては、町組みや寺社仏閣など残されたものが数多いが、そのいくつかについてあげておく。 1)牧牛山 普賢寺 小野町大字小野新町字丹後坂4番地 臨済宗 牧牛山 普賢寺は、もともと滝根町広瀬の西貝屋というところにあったものを小野城の城主、田村梅雪、右馬守親子が禅の修業のために、現在の場所である城の近くに移築したものと伝えられている。 普賢寺は、南北朝時代の観応、正平年間(1350〜52)夢窓国師が開山である。夢想国師は一時期、下野那須雲巌寺仏国国師のもと修行し、北茨城の接待庵に止往し全国に夢窓の禅を広めていた。普賢寺においてもそういった流れの中で開山されたものと思われる。 天正10年に田村右馬守清通が別山禅師(普賢寺住職)に帰依し広瀬村西貝屋から現在の場所に移した。田村梅雪、田村右馬守親子は熱心な信心家で参禅に勤め、田村家の家紋である茗荷を寺紋に認めるほどの参禅修道ぶりであった。 本堂にある寺額の牧牛山の字は、臨済宗各派の中興の祖といわれる白隠禅師が書いたといわれる。 文久4年(1864)2月13日の本町の熊次郎養子儀兵衛宅より出火した小野新町の大火で本堂はじめ諸堂を焼失した。 当時を偲ぶ堂宇に蔵地蔵があり、格子天井には雪舟十世法眼等随の彩色龍の絵がある。万米上人作の延命地蔵を安置してあるが最初は経堂であったと思われる。 本堂 明治29年に再建。山門は寛延3年(1750)建立 観音堂 縁日は8月17日 蔵地蔵 雪舟十世 法眼等随の彩色龍の絵 火伏地蔵堂 明治6年3月7日に役場入口から現在地に移転 水子地蔵堂 毎年4月の末に祭礼 北野天満宮 宝暦5年(1755年)に遷宮 本堂脇には、開山の田村梅雪、田村右馬守親子の墓と一緒に 慶応4年(1868年)7月26日の小野新町での戊辰戦争の戦いで、谷津作和久橋付近において19歳で戦死した薩摩藩物頭の吉井甚之助、増光院殿居士の墓がある。 この吉井甚之助については後述があり、 明治6年7月25日に巡視にきた陸軍中尉酒勺景継が慰霊の為普賢寺を訪れ、さらに翌年の明治7年8月、七回忌に合わせ、薩摩より多くの伴を従えて崎元平左衛門、同じく深柄彦八というものが改葬のため来たという。そして石塔を建立して謝礼3両、詞堂料1両、石塔建立費5両をもって永代供養をお願いしていった。 この時、増光院殿居士の戒名を追号されたという。 2)小野山 専光寺 小野町大字小野新町字舘廻87番地 専光寺は、浄土宗名越派で本山は知恩院で、開山の善補は永禄年間(1558〜)専称寺で修行後、専称寺の住職を要請されるほどの高僧ながら、行脚の途中同郷で石川郡平田蓬田出身である蓬田小左衛門基光宅に一泊したときに、小野城落城の事情を聴き、小野城落城の田村家家臣団の追善供養をするため、永住を望まれ、慶長元年(1596)修善庵と寺名を命名し開山したといわれる。蓬田家文書によれば 専光寺開山 慶長元年(1596)3月5日 浄土宗 大巌経蔵和尚 當山 顕通院殿春林甫公大居士 開基 専光寺殿春夢幻公大童 となっている。 この蓬田小左衛門基光は田村清顕に元亀元年(1570)平田蓬田の地を与えられた蓬田隠岐守の子孫で、慶長6年(1605)最初の本堂建立を発願し、寛永2年(1625)完成する。 実質上の開創は蓬田小左衛門であるが、開基を田村右馬頭として小野城城主に譲っている。 同じく蓬田家由来書によると、 基光は故あって天正3年7歳のとき田村右馬頭に養育され、岩城とに戦いなどで武功をたてた。 さらに元和3年、蒲生下野守秀行より田村郡駒付役を仰せ付けられたとある。そして、基光の父の弟雅楽助は田村梅雪に仕え、その子の助太郎は天正17年の岩城の来攻により城主以下自刃の際追腹を切るとあり、 また、基光の妹は右馬頭の嫡子の乳母としてひそかに逃れて養育したとある。 牧牛山普賢寺に残る梅雪、右馬頭の過去帳記載の雅楽助とその子、乳母の追腹の記録との関連を考えると、年代や前後の関係に若干の不明な部分は残るが、前述の梅雪、右馬頭の最期の状況が想像できる。 諸堂 薬師堂 縁日8月28日 「め」の如来様として親しまれている。 観音堂、馬頭観世音祭礼 縁日8月17日 百万遍御忌会 1月25日 3)吉西山保泉寺 小野町大字小野新町字寺下103番地 末寺として町内に多くの寺院を抱える曹洞宗の寺院である。 開基は石川冶部大夫で、文亀元年(1501)2月に開山となっているが、 再開は、慶長10年(1605)小野城主田村右馬頭の家臣の志賀江釣が小野城落城後の領主となった蒲生侍従秀行に願い出て古寺台に再建したものである。 末寺には月叟寺(浮金)、雲林寺(南田原井)、吉祥寺(吉野辺)、宝蔵寺(滝根町広瀬)があるがいずれも多くは小野城主田村右馬頭や家臣団が開基となっている。 刀八毘沙門天祭 1月初寅 家内安全、武運長久 大般若会 1月中旬 4)金峰山 月叟寺 小野町大字浮金字越野367番地 曹洞宗の保泉寺の末寺で、開基は小野城主田村右馬頭である。 開創は天正9年(1581)となっており、伝承によると、小野城主の田村右馬頭の家老である藤井善重郎は、岩城常隆が小野城を攻撃し、城主の首を出せば攻撃をしない旨の申し入れに対し、身代わりに自らが切腹し首を岩城常隆に届けさせ事無きを得たと言う。この己の命を捧げた悲壮な最期に、城主右馬頭が開基となり天正9年(1581)伽藍が落成し、善重郎の戒名をそのままとって、金峰山月叟寺と名付けたという。 5)電光山雲林寺 小野町大字夏井字寺谷津作134番地 雲林寺は曹洞宗の保泉寺の末寺で、樋口の舘主の菩提寺であった。天正12年(1583)、3月岩城常隆の軍勢に敗れて落城し、寺谷津作に移った。この時に雲林寺も寺谷津作に再建されたという。 開基は宗方右近で、移転した寺谷津作にあった田原谷城は、中津川城主の中津川兵衛大夫の城で、家老宗方右近が治めていたが天正17年、岩城常隆の小野城攻撃の前に攻め落とされている。 6)源松山洞円寺 小野町大字飯豊字堂ノ脇55番地 曹洞宗の寺院で、開基は田村右馬頭の家臣で今泉山城守重経(初五郎太夫)。 重経は天正17年(1589)5月9日の伊達勢との門沢城の戦いで、先陣の将として敵軍を打ち破り、勝利をおさめた。このときの戦没者を供養するために一宇の菩提所を建立したと言う。 7)光明山無量寺 小野町大字小野赤沼字寺前72番地 中興開山は良拾上人(授徳)で開山はもっと前と思われる。 この授徳は専光寺開山の善補の弟で、いわき市山崎の専称寺の本山貫主にまでなった高僧であり開創は天正11年(1583)となっている。 無量寺の仏像は白水阿弥陀堂の如来像と同時代のものと伝えられ、田村右馬頭の家臣の赤沼舘主会田遠江守源重信、菖蒲谷村会田左馬守が大旦那となって天正11年5月修理を完了したと言われている。 小野町の歴史 中世の時代 参考文献 小野町史 小野の獅子舞 横田幸哉著 三春町史 蓬田家文書 高 橋 宗 彦 平成11年7月5日 |