人物列伝
「足利茶々丸」

足利茶々丸イメージ
↑足利茶々丸イメージ像(畠山義綱画)

人物名 足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)
生没年 ?〜1498
所属 堀越公方
主な役職 第2代堀越公方
参考文献 家永遵嗣「堀越公方府滅亡の再検討」『戦国史研究』27号
小和田哲男「堀越公方の政治的位置」『地方史静岡』11号
(共著)『神奈川県史通史編1−原始・古代・中世−』
(共著)『戦国大名論集3 東国大名の研究』
人物の歴史
 政知の子。2代目堀越公方。堀越公方は初代公方・足利政知によって誕生する。鎌倉公方・足利成氏が室町幕府と敵対した為、時の将軍・足利義政の弟・政知を関東公方とすべく派遣したのである。しかし、政知が幕府から奉行人などを連れて下向しても鎌倉公方方諸勢力はなかなか寝返らず、政知は鎌倉に入ることすら出来なかった。そこで、足利一門にして軍事力も期待できる今川氏の影響力が及ぶ堀越に政知は居を構えたのではないかと小和田哲男氏(「堀越公方の政治的位置」より)は指摘している。堀越公方はその性格上、幕府の影響を色濃く受けていた。また、政知が連れてきたのは、奉行人だけで、軍事力をもって下向しなかったので、堀越公方の影響力は強大ではなかった。それでも政知存命中は古河公方の対抗勢力として、なんとか影響力を維持し得た。
 しかし、それが大きく変わってしまうのは、初代堀越公方・足利政知が死去した1491年からである。2代公方の相続争いから、茶々丸を推すグループと、将軍・足利義高(後の義澄)の母と義高の弟・潤童子を推すグループに分かて争いが起こった。そして、1491年政知が死去した3ヶ月後の7月に何者かによって、義高の母と潤童子が殺害された。時期的にみて、その後、堀越公方を相続した足利茶々丸が犯人であろう。こうして堀越公方は一旦は茶々丸の下に収束された。同年その堀越公方の内乱の隙をみて、既に周知の事実となっている伊勢宗瑞の伊豆侵攻が行われるのである。茶々丸に反感を持つものは、これを機に伊勢宗瑞方につき、ここに再び茶々丸派と義高派(伊勢宗瑞派)に分かれて争いが起こるのである。義高の母を殺したことによって、幕府と対立した堀越公方はその求心力をなくし、さらに、政知以来最大の後援者である今川家も敵に回し茶々丸方劣勢に戦いは推移した。
 ただ、従来堀越公方の滅亡が1491年に求められたのに対し、家永遵嗣氏が「堀越公方府滅亡の再検討」において、その滅亡時期の再検討を行った結果、1491年以後も茶々丸の活動が知られ、「少なくとも明応五年まではなお伊豆・武蔵・甲斐を基盤に活動を続けていた」としている。堀越公方の勢力は一枚岩ではなかったものの、1491年以後も伊勢宗瑞に対して反抗活動をしている。家永氏前掲論文によると、茶々丸は1495・1496年頃の伊豆での伊勢宗瑞の発給文書は戦乱関連のもので、伊豆における戦乱がまだ収束してなかったことを知らせるとしている。一方、茶々丸の行動は1496年に武蔵から都留に移ったと言う記録があることから、家永氏は武蔵や都留が山内上杉の勢力圏であることから茶々丸が「山内上杉氏と関係をもって活動している」のではないかとしている。伊勢宗瑞からの防衛に奔走した茶々丸であったが、1498年に切腹をし紛争が終結するのである。室町幕府の全面的バックアップがあってはじめて主体的に活動できた堀越公方にあって、将軍を含む今川氏などの従来の有力後援者を敵に回した茶々丸が堀越公方を存続させるにはどだい無理があったのであろう。
義綱解説
 堀越公方はついつい野球で有名な「堀○学園」の影響か「ほりこし」と読んでしまいますが(笑)、伊豆韮山町の堀越御所跡のある「堀越」の地名の読み仮名は「ほりごえ」で堀越公方も正しくは「ほりごえくぼう」であると、小和田氏が指摘しています。(「堀越公方の政治的位置」より)私もついつい「ほりこし」って読んでしまうんですよね。私義綱は、どうしても古河公方やこの堀越公方のように実力のない政治組織が非常に好きです。しかし、古河公方がその影響力を最近見直されているように、堀越公方にも今後スポットライトをあてて欲しいと思っています。

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