姫島での獄屋生活も十ヶ月を迎えた慶応2年(1866)9月16日高杉晋作の命を受けた福岡藩を脱藩した志士ら6名によって
望東尼は救出され、馬関(今の下関市)の白石正一郎宅において高杉と感激の対面を果たした。しかし、その時、高杉はすでに病魔に冒されていた。そんなある日のこと、病床の高杉が
「面白きこともなきよに面白く」
と、上の句を詠んで、望東尼に下の句を続けてくれと言った。
望東尼が
「すみなすものは心なりけり」
と詠むと、高杉は「面白いのう」と言って笑ったという。
面白いことのない世の中を面白くするにはどうしたら
いいのだろうかという高杉の問いかけに
望東尼は、四囲の状況がどうあるかということではなく、
自分がどう思うかである、それは心の持ちよう次第あると答えた。高杉は慶応3年4月14日、29歳で亡くなった。
(白石家の裏門は当時は海に面しており、ここに望東尼を乗せた船は横付けされた。この門は 現在長府市に保存されている
高杉亡き後、望東尼は長州の人々の好意に支えられながら、福岡藩が藩論を倒幕に変更し、未だ福岡の囚中にいる勤王の志士が開放されることを願って、長州の同志にその援助を請うなどの周旋活動をした。そして、知人を頼って、長府・湯田・山口と居を移した。慶応3年9月25日、望東尼は山口を発ち、薩長連合軍の東征を見送るため三田尻(今の防府市)に向かった。
折りしもその日は宮市の天満宮(防府天満宮)で、花神子社参式が行われていた。この日から七日間、望東尼は毎日天満宮に参って、一日一首ずつ歌を奉納した。そのうちの四日目の歌は
あづさゆみ引く数ならぬ身ながらも
思ひいる矢はただに一筋
(私は女なので弓を引くことはできない身であるが、
深く思って射る矢はまっすぐにいちずである)
しかし、その無理がたたったのか、10月中旬頃から病床に
伏すようになった。
次の歌は辞世の歌といわれている二首のうちの一首である。
花浦の松の葉しげく置く霜の
消えればあはれ一盛りかな
(三田尻の松葉にいっぱいおりた霜が消えてしまうと
ああそれもほんのひとときの盛りだったなあ)
花浦は三田尻の地名「華浦(かほ)」のこと。松原は鞠生の松原。朝の霜にたとえて、人の人生もはかないものだと概観している。
11月6日、望東尼は62年間の生涯を防府の三田尻で閉じた。
この年の暮れの12月には、江戸幕府を廃し政権を朝廷へ移す
王政復古の大号令が発せられた。高杉と望東尼はそれを
見届けることなくこの世を去ってしまったのである。
(防府天満宮)

(終焉の部屋は桑の山の麓に移転されている
防府市岡村)
(終焉の地、防府市三田尻本町)
(桑山の墓)




(防府天満宮境内の歌碑と胸像)


(花御子社参式、平成19年10月14日)