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妊娠、検査、カウンセリング、人工死産手術、全てアメリカで行いました。
1)最初に赤ちゃんの異常が分かった時は、ダウン症検査の為の超音波検査で、内臓が飛び出ている等の異常を指摘されました。
2)次の日、遺伝子のカウンセラーと会う事を促され、主人と一緒に会いに行きました。
そこで、私達の家族の事を聞かれ、絨毛検査を受けるべきだと言われたのですが、その日は決断しませんでした(ダウン症だとしても生きられるなら生きて欲しかった)。
3)翌日、普通検診に掛かっている産婦人科の担当医と話し、セカンドオピニオンを聞きたいと伝え、別の病院を紹介されました。
4)その日のうちに検査してくれるとの事だったので、ハイリスク専門医である先生に診て貰いました。
診断結果は、私のお腹の中ですら生きられる確率はほぼなく、仮に生きて生まれてきても数時間の命。医師として、生きられる確率を0%とは断定できないけれども、諦めた方がいいというニュアンスで話を進められました。
また、今後妊娠継続すると母体にも何らかの影響が出るという話を聞き、主人と私とで人工死産の決断をしました。
5)その後、人工死産をするにあたってのカウンセリングを受けました。
私は、それ以前に【泣いて笑って】を見ていたので、こういう事はできるか、これは?あれは?と、この時にカウンセラーに質問しました。
6)主人と私の誕生日が月違いの10日なので、赤ちゃんの誕生日も10日にと思い、13週6日でお別れしました。
週数が長くなかったので、掻破手術と同じ方法で麻酔が掛かっている間に行われ、赤ちゃんを抱く事も対面する事もありませんでした。
思い出は、超音波写真と赤ちゃんがLaboに行くまで一緒に飾って欲しいと頼んだ小さい白いチューリップの花しかありません。
後悔しない日もありません。 人工死産直後は自分を責めました。何故決断したのかという思いもありました。
でも、間もなく1年が経とうとしている今となっては、人工死産を選択した事自体よりも、元気にお腹の中で育ててあげられなかった事への後悔が大きいような気がします。
医師から受けた説明は、人工死産を強制するものではなく、私達夫婦が決断したと思っています。
それは、説明が医学的なものであり、確率や統計、医学書に載っていた同じような障害を持った赤ちゃんの写真を見せて貰った上で判断した点が良かったのだと思います。
最初の検査で異常があると言われただけでは、このような判断はできなかったと思います。 |
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不妊治療のクリニックの先生に初期の頃NTを指摘されました。
このときは、NTがあることで、染色体異常の可能性がある、 でも絶対とは言えないし、NTがあっても異常がなく生まれてくる子もいる、
と説明を受けました。そしてこのまま自然に任せるか、羊水検査で精査をするか どうするかを聞かれました。
NT(後頚部浮腫)に関しては患者に説明するのか、しないのか、生命倫理も関わってきて、難しい問題のようです。この時点までは、説明をきちんとしてもらえてよかったと思っています。
そして精査を希望し国立病院を紹介されました。 診察後、本当に精査を希望するのか、を確認されました。
実際医師との具体的なやり取りはこの程度しかありませんでした。
人工死産しかないと暗に押し付けられたりすることはありませんでした。
医学的な情報もいただきました。 でも・・・私の場合は、もっともっとそれ以外の情報がほしかったと切に願っていました。 うまく伝えることが出来ないんですが、
その医師からは、教科書に載っているような説明しか受けられなかったんです。 そんな情報はすでにインターネットで自分で調べていました。
教科書にはこのように書かれています・・・あとは自分たちで決めてください、 そんなふうにしか聞こえなかったんです。
私が欲しかったのは、産婦人科医師という長い専門的経験の中から、 その先生が考える意見やアドバイスだったんです。
うーん、なんていったらいいのか・・・人と人として向き合って欲しかったんだと思うんです。 機械的、事務的に関わられた感が残ります。
もちろんカウンセリングを紹介されるわけでもなく、 看護師と話したわけでもありません。
人工死産という選択をした後も、
医師からは何も意見をいただけず、 自分の決断が医療関係者に受け入れられていない、とずっと感じていました。
もっと情報がほしかったし、もっともっと医療関係者に関わって欲しかったと今でも思います。
産婦人科医師の立場からすれば、今の時代、軽はずみなことは言えないことは
理解できます。赤ちゃんは健康に生まれてきて当然と思っている人たちが沢山いる中、少しなにかあれば裁判になりかねない時代。 立場的につらいことも理解できます。
でもやはり、私たちがそこで戦うのと同じように、医師にもそこで 向き合い、一緒に戦って欲しかったと思うんです。
人として、向き合う・・・
状況が今と変わらないとしても、 きちんと向き合えていたなら、 人工死産後の受容過程や、喪失体験の心の変化に
良い影響を与えていたんだろうと、感じています。
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1)私の場合、医師の口から人工死産と言う言葉は一切ありませんでした。先生は私の妊娠を継続させる為に、大学病院への転院を考えてくれていました。その時点で21週2日、もう日が無い事を知っていた私の口から人工死産の事をお話しました。(人工死産の事は、携帯で調べたり泣いて笑ってを見て知りました。)もちろん自分から話すのは辛かったです…
2)上に同じ。全く勧められるような事はありませんでした。私の言葉が無ければ、きっと今も大学病院で入院治療をして頂いてたでしょうね…。おなかの赤ちゃんもまだ生きていたかもしれないと思うと胸が締め付けられます。後悔と言うより、自責の思いが強いです。
3)関係者で話を聞いてくれた方は一人もいませんでした。それどころか、私が決断を迫られている事さえスタッフに知らせておらず、とても話せる雰囲気ではありませんでした。皆さん仕事が忙しそうで、足をとめて頂くのも悪くて、話す気にもなれませんでした。ホントはわんわん泣きたかったし、一緒に泣いて欲しかったです…。先生は考える時間を二日間くれたので、旦那と話し合い自分で決めました。分からない事はネットで調べて手探り状態でした。
4)一方的と言わざるを得ない感じだったと思います。現状の説明を受けた時、一度にバーッといろんな事を言われ、ひとつひとつを理解する間も無く話が終わってしまいました。聞き直そうにも、何をどう聞くのかさえ良く分からないような状態でした。分からない事は後で自分で調べました。
5)カウンセリングは入院していたので受けていません。最も、私の頭にはカウンセリングを受けると言う事自体浮かんできませんでした。カウンセリングをどういう時に受けるものなのかが良く分からなかったので・・・。
6)私は2ヵ月間切迫流産で入院していました。それは個人病院でした。21週と2日の時に、羊水過少のため大学病院へ転院するように言われました。(結局転院しないまま赤ちゃんを見送る事になってしまいましたが…)もし転院していれば、羊水検査や、羊水を足す処置なども行なっていたと思います。 |
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無知だから・・・無知だからこそ、いろいろと知りたいのに、知りたいことがたくさんあるのに・・・でも、どうすればいいのか分かりませんでした。
私の場合は、医師の説明のみでの決断でした。
助かる見込みはないのと、いつ死亡するか分からないし、死亡した状態で母体に留めておくのもよくないということで、人工死産を勧められました。
その時、医師から「こういう場合、皆さん中絶されてます」と言われました。
妊娠継続できたのでしょうか・・・
そういう説明はされませんでした。もっと深くつきつめれば、もっとくいさがれば、違ったのでしょうか。 医師の言葉がすべてだったように思います。
セカンドオピニオンもカウンセリングも頭に浮かびませんでした。自分で考える力もあまりありませんでした。(ただの逃げかもしれませんが・・・)
第三者の声、聞きたかったですね。 たとえ同じ結果になったとしても 今の想い・悩み・・・少しは違ってたのかもしれないと思います。
ほんとに私は無知でした。無知な上に思考回路も止まりそうな中での決断でした。 あまり公に語られることのないことだからこそ
もっと情報が欲しかったと・・・切に願います。 |
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19週で地元の病院にて胎児水腫を指摘され、紹介状を持って次の病院へ。
人工死産か妊娠継続かで揺れました。妊娠を継続すると決意して、その後、子宮内胎児死亡となりました。
県庁所在地の総合病院にて、事細かな説明を受けました。
羊水検査もそこで行い、出産に至る可能性は ほぼゼロに等しいとの宣告を受け、
胎児治療を行ったとしても それは家族を不幸にすると、人の命は地球より重いというけど そうではないこともあるのだと、
人工死産をしても 誰もアナタを責めたりはしないだろうと、告げられました。
「継続する」と伝えた時、医師は静かな笑顔で「わかりました」と仰いました。 いい方でした。
でも、そこで出産できる確証がいただけなかったので、転院しました。
3つ目の病院は最悪でした。
診察するなり「(胎児は)まるでぼこぼこに殴られたボクサーのようだ。」と。
週数を越えているけど、(人工死産を)やってあげるよと言われ、私は、怒りを堪えてその場を立ち去りました。
このとき、職場でも上司から追いつめられていました。 私が胎児の異常を告げた時、つい涙を流してしまったため、
上司は 事もあろうか私を「冷静な判断不可能な状態」と見なし、ダンナの 職場へ赴いて事情を聞きに行ったのです。・・・屈辱でした。
一体「いつの期間」私の代わりを見つけたらいいのかと、自分の苛つきを私にぶつけてくるような上司でした。
誰も私の話を聞いてくれない。誰も私の苦悩を察してくれない。
娘を救うことよりも、この子の命を一つの命として扱ってくれる病院を探し始めたところ、友人から一つの情報が入りました。
子どもを亡くした方達の集団カウンセリングを自発的にやってらっしゃる 心理士さんが、何かアドバイスをくださるかもしれない、というのです。
早速その方に電話をしてみたところ、一軒だけ母子診療科を伴う病院がある、 そこの心理士さんと知り合いだから、話をしてあげる、
その産科には女医さんがいるから、その方ならアナタの気持ちを汲んでくれる かもしれないという、 全く・・夢のような話でした。
そこで、私は「初めて」聴いていただけたのです。 その心理士さんは、目の淵を赤くしながら どれだけでも聴いてくださいました。
そして、この状態では仕事も難しいでしょうから、療養休暇が取れるよう 診断書を書きましょう、とも仰ってくれました。
私が出会ったその産科の医師は、お腹の子を時間をかけて診察しながら 「この子、頑張ってるね〜! うん、命の限界を頑張ってる!!」と
澄んだ声で語ってくれました。「ここだ・・ここでやっと産める」と涙が止まらなかったことを、今でも思い出します。
【もう、助からないのなら、生きているうちに産んであげたい。
自然分娩では 赤ちゃんの体力が持たないのなら、帝王切開で取り出して最後は、私の腕の中で看取りたい】私の最後の願いでした。
「そうね・・でも、この赤ちゃんは、出た瞬間に亡くなるよ。数時間でも生きられるなら意味はあるだろうけど、きっと1秒も持たない。
だから、もう少し考えようか。何かあったらいつでも来てくださいね。」医師にそう告げられて、病院を去りました。
その3日後に、娘の胎動は消えました。私が守っていたのではなくて、娘が私を守っていたと感じた思い・・・
きっとおかよさんになら、わかっていただけると思います。
幾つも病院を廻って痛感したのは、医師の言葉ひとつで、変わるってこと。
そうです、情報や医療事務的なこと、確率的な数字ではなくって、一人の血の通った人間としての思い、共感。
そこに、悲嘆と絶望の中にある自分達への「想い」が感じられたら、例えその行き先に死が待っていようが、もしかすると感謝の思いでその病院をあとにすることができるのかもしれません。
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私は個人病院入院中に起きた、19w前期破水のため、息子を人工死産しました。
【個人病院では】
1)仕方のないこと、こうなったのは、母親か、赤ちゃんに原因があると言われた。
この時、まだ人工死産という話はでなかった。様子を見ましょうとのこと。
この時点で、入院中、夜中に破水した私を診察せず、九時間放置した個人病院での対応に、ここでは赤ちゃんが殺されると思い、転移搬送を希望。
2)様子を見てダメなら、諦めてくださいの一言で診察は終わりました。 生きられる可能性など、説明は一切なかったです。
この個人病院で、転移搬送されるタンカに乗った私と主人に、医師がかけてきた最後の言葉、「たぶん、もうダメでしょう」の一言でした。どこに行っても、助からないよ、という意味で言ったのだと思います。
【周産期センターでは】
1)細かい説明をしていただきました。
現在の状況、胎児の状態、母体の状態、今後の選択として、今回は人工死産という方法、重い障害が残る可能性が極めて高いということ、たとえ産まれて来ても、すぐに亡くなるかもしれないということ、私の体が破水していたため、 感染し、白血球が異常値を示し、子宮全摘出、あるいは、母体の生命にかかってくるということ、全ての説明を頂きました。
突然のことに私たち夫婦をふたりにしてくれ、医師としては母体優先したいという意見も、その説明も詳しく頂きました。
2)医師の立場として、赤ちゃんと母親、両方救いたい想いは強いが、私の白血球の値を見ると、このまま正期産まで持たせられることは難しいということでした。暗に勧められたというより、重度の障害、生きられないであろうという現実が重くのしかかり、さらに主人には私の体・生命の危険ということがあり、結果、夫婦で決めたことでした。
3)定期的に検温に来る助産師さん、人は変われど、皆私の気持ちをただひたすら聞いてくれました。医師も、同じ経験がおありで、その話を聞かせてくれました。もちろん、私たち夫婦の想いも・・・
4)よく気持ちを聞いていただき、支えていただきました。
5)カウンセリングというはっきりしたものではありませんが、上記のことが何より救われた気がします。
6)個人病院から周産期センターへ転院搬送してもらいました。
個人病院との対応の大差にも本当に驚きました。
同じ命でも、周産期センターでは、大切にしていただきました。 個人病院は事務的で、哀しいくらい命を扱う場所とは程遠いものでした。
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私は2005年夏に二分脊椎で人工死産を決断しました。
いつも通っている産婦人科にいつも通りに行くと、超音波を見ていた先生に「ちょっとおかしい‥」と言われ、何がおかしいのか全く説明のないまま、「とにかく紹介状書くので、すぐに大学病院に行って詳しい検査をして下さい」と言われました。
不安なまま、次の日大学病院へ行き、超音波だけでは分からず、また次の日MRI検査をすることに。結局、赤ちゃんの脊椎に障害があり、しかも重度の障害であると診断されました。
1)大学病院の先生は同じような症状で生まれた赤ちゃんの写真を何枚か見せてくれました。
どの子も背骨が飛び出ているような状態で、「軽度だったら、生まれた後手術して良くなることがあるが、今回は重度なので普通の生活はできません」
と言われ、遠まわしにですがあきらめたほうが良いという説明を受けました。
22週という状態だったので、「1日でも早く決断をして下さい。あとは産婦人科の先生と相談して下さい。」 と言われました。
2)そのまま、いつもの産婦人科に行き、なにかいい方法がないか、どうしたら良いのかなど詳しく聞きたかったのに、先生の一言めは「今回は仕方がないでしょう。」というものでした。
産婦人科では二分脊椎で生まれた後の説明は全くなく、「妊娠を継続しますか?」の一言もありませんでした。
決断したのは最終的には自分ですが、出産するという選択肢は先生の中ではなかったように思いましたし、そうするしかないんだと思いました。
3)1日でも早く‥というこんな状況の中で、相談する時間などなく、相談する先生・看護師さんもいませんでした。
4)次の日病院に行き、書類を書かされ、訳の分からないまま事が進んで行きました。
初の妊娠で、何も分かっていなかったので、中絶のような手術だと思っていたのが、今思えば当たり前なのですが、人工的に陣痛を起こし出産をするということが、先生からではなく看護師さんから、しかも子宮を開いていく器具のようなものを入れられた後病室に連れられた時に聞きました。
そして前もって先生が看護師さんに、「赤ちゃんちっさいからすぐ出てきてしまうと思うから、気をつけて見てて。」
と言っていたのに、部屋にいる時に気付いてもらえず、主人が私が出血しているのに気付いてあわてて看護師さんを呼んでくれたのですが、すでに遅く、看護師さん数人が私の手と足を持ち、そのまま分娩室に行く手前の廊下、
しかもその廊下は、新生児が見れるところで、赤ちゃんを見に来ていた人たちの目の前で破水し、私の赤ちゃんは産まれてしまいました。
あまりにもひどい対応に、退院する時に、先生に仕方がないと言われたこと、何の説明もないまま事が進んでいったことを看護師さんに泣いて訴えました。
5)カウンセリングを受ける時間もなく、赤ちゃんの症状を自分なりに調べる時間もないままの決断でした。それが今でも悔やまれます。
今でも、出産した時のことを思い出すと、悔しくて、悲しくて涙が出ます。
‥せめて普通に産んであげたかった。・‥せめて一言優しい言葉をかけて欲しかった。
その後、具合が悪くなり同じ産婦人科には行きたくなかったので、違う産婦人科に行き、人工死産したことを話したら、「みんなが普通に産んでいるところで、そうやって産んだことはつらかったでしょう。」
と言ってくださって涙が出ました。
結果は同じでも、一言優しい言葉があったり、話を聞いてくれるだけでどれだけありがたいか産婦人科に働いてらっしゃる方に知っていただきたいです。
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私は2005年に、無脳症で息子を人工死産しました。
妊娠初期は個人病院で診察してもらっていたのですがその時 超音波検診で異常があると聞かされ「大学病院で検査してみて」 と軽く言われました。
私は何がなんだかわからずなぜですか? と聞くと 「頭位がまったくみえない 多分無脳症かな?」と軽くいわれ 近くにいた看護婦さんに
初めてみたよ無脳症の胎児 とまで言われました。
私は(なにいってんだ?先生は?)と、頭がパニックになりなんなんだ無脳症って?と混乱しながら家に帰った思い出があります
その後インターネットで調べて 生存率のないことをしり愕然としました。 その時このコミュを知っていたらよかったのにと悔やまれます。
次の日紹介された大学病院では 超音波検診で異常があると聞かされ なんびくぶんの1の確率でなるからとか次の子供は何千分の1の確率とか・・
確率の話しばかりで 。 この子は助からないのですか?と聞くと
産まれたとしてもすぐ死んでしまうと・・入院するなら早いほうがいいなど一方的だったような気がします
気をつかってくれたのは、産科だと赤ちゃんの泣き声など聞こえるからと婦人科の個室を用意してもらったことですかね。
入院中は看護婦さんがいろんな話を聞いてくれたり話してくれました。今でもなぜわたしの子供が・・とふと思ったりします。
死産後も大学病院に通い薬のんでます。
今思うともっと親身になって聞いてくれたり説明してもらえたらよかったのに・・・と思ってみたりします。 |
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2007年5月に嚢胞性ヒグローマで18週5日の娘を人工死産しました。
1)私はこの妊娠出産において5つの病院(助産院含む)に行きましたが3件目の大学病院では助かる確率はほぼない、ということでした。しかし、選択は私たちの意志に任せるとのことで、人工死産というのはあくまでも選択肢のひとつ、という感じでした。詳しく話を聞いてくれるわけでもなく、どうしていいか、本当にわからなかったです。
2)上記の通り、判断はご両親におまかせ。という感じで、最初に通っていた助産院に相談に行きました。
助産師さんは2件目に行った個人院に電話をして相談をしてくれました。
そして県内のこども病院への紹介状を書いてくれるよう頼んでくれましたが個人院の先生は、(助かる)見込みがあるなら協力するが、エコーをみたところでは自分からそこへの紹介状は書けない、という答えでした。
(すごく親身になってくれいい先生でした)それを聞いて助産師さんは知ってる限りの先生に連絡して紹介状を書いてもらおうとしてくれましたが、個人院の先生の言葉で私は人工死産の決意をし始めました。
3)個人院の先生も本を見せて、詳しい説明をしてくれました。ただ開業されてからこの症例は初めてらしく、週数もいってるのでその病院では何もできないということでした。
最初に通っていた助産院の方はとても親身になってくれ、いろんな先生に電話をしてくれたり励ましてくれたりして話を聞いてくれました。
最後に別れるとき、泣きながら「また、おいでね、待ってるよ!○○さんを待ってるよ!」と力強い握手をしてくださり、この方の存在はとても励みになりました。
4)3件目の大学病院では、決断するまでまだ時間はあるから、と私たちの決断を尊重してくれましたが、ちょうどゴールデンウィークに入る時で、その期間、どの病院もやってないというのが私には恐怖で、見捨てられた感覚というか、信じられない気持ちでどうしていいか分からないのにこちらの線には入ってこない(当たり前なのですが)その壁がとても冷たく感じていました。
といっても、半日がかりで待ち、やっとの診察、次にもたくさんの妊婦が待っている、そんな状況では仕方ないのは承知していますが。
やはり、そういうときにこそ話を聞いてくれるカウンセリングの方がいたら、また違かったのかもしれません。
6)助産院で紹介された大学病院の先生は超音波ではこの人!と言われてるという方で、ヒグローマについてもよく分かってるようでした。決断後は人工死産はその病院ではやってない為、紹介された病院は堕胎専門というか薄暗く、医師も看護師も思い出したくないような暴言をはくような所で
あの大学病院からの紹介先なのにこんなにも嫌な雰囲気なところっていうのが 人工死産を決意したのは後ろめたいことなのかな、と苦しみました。
結局、また最初の助産師さんに電話で相談し、2件目の個人院さんに話をしてくれ 私たちの希望を尊重して人工死産を行える個人院を紹介してくださいました。
少しずつ前を向いてるつもりでしたが、私はまだあの経験を細かいところまで全く忘れておらず、それどころか話したかったんだ、ということに気付きました。
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説明を聞いているときは、医師の言っていることがもっともだと思ってしまったのですが、日が経つにつれ、私の受けた説明は妥当だったのかという疑問が大きくなっています。このような場合の告知やサポートには、ガイドラインのようなものがあるのかと漠然と思っていましたが、医者や病院によってまちまちのようですね。
私の赤ちゃんは18トリソミーでした。
1)95%の人はあきらめる。敢えて茨の道を選ぶより今あきらめたほうがよいと言われました。そうするのが当然という前提の下の説明だったと思います。
2)妊娠を継続した場合に受けられる医療サポートなどについての説明は何もありませんでした。
3)担当の医師以外誰もいませんでした。遺伝カウンセリングの相談も必要ないと言われました。
4)一方的な提案だった思います。ショックを受けた私が泣いてしまい何も言う前から、「明日から入院して処置を…」というスケジュールを切り出されました。
5)受けませんでした。
6)産婦人科専門の個人病院ですが、比較的大きな、設備も整っている病院でした。
以上のような説明で、他に選択肢はないのだと思ってしまい、その場で決断してしまったことが、大きな悔いとなって残ってしまいました。同じようなことが繰り返されないように、勇気を出して直接病院側に疑問を投げかけようか悩んでいます。
私の場合は、分娩中もほとんどひとりで放置され、手を握ってくれた人も話を聞いてくれた人もいませんでした。自分が悪いことをしているから蔑まれているのではないか、迷惑と思われているのではないかという心境になりました。
個人病院で、重篤な患者は大病院に移送するので、このような経験があまりないのかもしれません。体験者の側からこうして欲しいと伝えることは大事だと思います。
その病院は、ホテルのような内装や豪華な食事を売り物にしており人気が高いため、予約をしていても1,2時間待たされることもあります。医師もスタッフも非常に多忙であることがわかり、こちらが質問をするのも遠慮してしまうほどでした。産婦人科は概ねどこも医師不足で似たような状況なのでしょう。その中で、ひとりひとりの患者への手厚いケアを望むのは無理だと思います。
医師としては、私たちがなるべく罪悪感を感じないで済むように気遣っての説明だったのかもしれませんが、結果的に、より私の中で後悔が残ることとなってしまいました。限られた診療時間の中で患者と医師の意思の疎通ができていないことが一因と思います。
個々の現場の医師や助産師にゆだねるのではなく、何かもっと大きな枠組みの中で、産婦人科という最も幸せと不幸が隣り合わせの医療の領域で、つらい経験をしなければならない患者の心のケアをサポートする体制があればいいなと思います。
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私は2007年の2月に無脳症のため、第一子を19週で人工死産しました。
妊娠して、お医者さんに母子手帳を貰ってきてくださいと言われたら、もう無事に出産して当たり前、という認識でした。
安定期に入り胎動を感じ始めた矢先の健診でエコーに異常があると告げられました。
私は子宮に先天性の奇形(双角子宮)があり、ふたつの子宮をひとつにする手術を8年前に大学病院で受けました。一度子宮を切開しているので、出産する際は自然分娩は無理だろうということをその時に言われていましたので、妊娠が発覚した当初から大学病院を選びました。
3度目の健診でのエコーで胎児の頭部が確認できないので、翌々日MRIで再検査を受けました。 結果、無脳症ということでした。
無脳症の子供がどれくらいの確率で生まれてくるのか、原因は何なのか、母体の中では生存できるが生まれてもすぐ死亡してしまう理由、子宮が元々奇形だったからこういう結果になった訳では決してないこと等
丁寧に説明はしていただけました。
私の場合はふたつあった子宮をひとつに繋げていたので、できるだけ子宮に負担をかけないために人工死産をすすめられました。
他に選択の余地などありませんでした。
亡くなるのを承知の上で出産する人がいらっしゃる、そういう選択があるとかそういうことは全てが終わった後、『泣いて笑って』で知りました。
個人病院でなく、ハイリスクな妊婦専門の病院であったため、医師も助産師も看護師も慣れているようで、あまり雑な扱いはされることはなかったです。
人工死産の処置が始まる前に、『誕生死』の本を渡されました。
これを読んだからといって赤ちゃんが助かる訳じゃないけれど、何か救いになれば、と言われました。
私の場合は、急激に陣痛を起こせば子宮が裂ける恐れがあるため 陣痛促進剤を少量ずつ服用していかないといけませんでしたので、分娩に4日かかりました。
体力的に限界でした。その間、ずっと手を握って下さった助産師さんも、一緒に涙を流して下さった助産師さんもいらっしゃいました。
私は自分の身体のこともあったので、人工死産以外の方法はなかったと思います。
それでも、私が親の勝手な選択で子供をあやめてしまったという罪悪感が未だ続いています。
そこの病院の看護師長さんには産後に悩みを聞いて頂いたりもしました。それでも罪悪感と喪失感にさいなまれ、夫婦仲も上手くいかなくなり、それ以外の理由もありますが結局離婚することにもなってしまいました。
何をどう話していいのか、一年経っても混乱しています。 いっぱい失ってしまったので、自己嫌悪に陥ります。
この痛みが癒える日がくるのか…と思うこともあります。
医療関係の方からの説明は一方的であっても、今の産科の状態では仕方ないのかと思わないでもありません。
医師とカウンセラーと夫婦・家族が共に、これからなくなっていく命についてどう向き合っていくか、話し合う時間があったらいいかもしれません。
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| 12 |
私は本当に病院の方々と家族に支えられました。
私が普通の田舎町の婦人科で紹介してもらった病院は胎児医療の専門の病院でした。 羊水の検査や胎児ドック専門の病院です。
だから、やっぱり悲しいことですが胎児に異常が見つかることもありますよね。
けど決して人工死産を薦めたり、それが当然なんて考えの先生じゃありません。 戸惑ってる私たちがその都度聞きたいことを
丁寧にわかりやすく説明してくれました。
私と主人は毎回いっぱい質問して すべての可能性を聞いて 毎日いっぱい話し合って
いっぱい悩んで・・・いっぱい泣いて・・・ 時間ギリギリまでかかって決断しました。
納得なんていつまで経ってもできないと思うけど、自分たちの納得いくまで考えて決断できたと思います。
勿論、私自身で我が子を殺めたという思いは消えることはありませんが・・・。
出産の時も、このような病院なので普通の分娩は受け付けておらず
他の人に会うこともないし私たちのような人を受け入れる配慮がたくさんありました。 出産の際の説明も丁寧で母体に負担のかからないように考えられたものでした。
カウンセリングってほどではありませんが 精神科専門のスタッフさんがいていつでも話できるし 入院した時もずっとついててくれました。
出産後も子どもとずっと一緒にいられるし 一晩過ごした次の日は沐浴もしてあげれるし 普通分娩で生まれてきた子と同じ 心のケアはそれ以上の対応でした。
両手の中にすっぽり入ってしまうくらい小さな子どもの 手作りの服も可愛らしい棺も必要なら準備してくれました。
私達も子どもがお空に一緒に持っていけるように寂しくないように たくさんの花や玩具やお菓子、家族の写真など用意することができました。
その後も、先生やスタッフさんとは 身体のことも心のことも何かあればメールもできたし 健診に行ったときにも話もできました。
次の子の妊娠の際にも不安だろうからと 出産のギリギリまで毎週のように 診てもらえました。
私はその病院でその先生で本当によかったと思ってます。少なくとも私はそこで救われた部分は大きかったと思います。 |
| 13 |
私は2007年5月に娘を20週で人工死産しました。
私の場合、娘には何の異常もなく、また感染症などもありませんでした。
原因不明の胎盤からの出血が続き、それによる母体の貧血と、羊水過少(おそらく前期破水)のためでした。
あまり例のないケースのようで、主治医の先生も正直戸惑っているような感じでした。
1)主治医曰くその当時の週数(19週)では赤ちゃんを助けるのは難しい、ということでした。
他に全く方法(羊水を足すとか)がないわけではないけど、私が入院していた病院では設備的にもこれ以上の処置をすることができない、他の病院を紹介することはできるが、週数的に難しいのと母体の貧血がひどいこともあって、今後治療しても輸血や感染症などのリスクを考えると引き受けてもらうのは難しいだろう、と。
また、このままだとおそらく子宮内で赤ちゃんが成長できず亡くなってしまうだろう、とも。
胎盤の出血が思っていた以上にひどく、止血剤が全く効いてない状態だったので、母体の安全を考えると赤ちゃんを諦めた方が・・・という話でした。(主人はこの話で決断したようです)
2)主治医には急いで結論をだす必要はないからゆっくり考えてください、と言われました。
でも、それまで毎日やってくれていた胎児の心音確認がその日からなくなり、私の絶対安静も解けました。
それは、暗に病院からもう子供の命を延命する気はない、と言われているように感じました。
3)たまたま人工死産の話があった日の担当だった看護師さんが、話を聞いてくれました。「少しでも気になることがあったら何でも先生に聞いて、ちゃんと納得してから結論を出してね」と言ってくれました。
私が「自分はどうなってもいいから赤ちゃんを助けたい」と言うと、「赤ちゃんはお母さんがいないと生きていけないんだから、お母さんがそんなこと言っちゃダメ」と、泣きながら叱られました。
4)正直、主治医の話は私たちの精神的なものまで考慮してくれた説明だとは思えませんでした。
でも、赤ちゃんの状態だけでなく母体への影響なども分かるように説明をしてくれたので、それを聞いて主人は決断できたようです。
5)カウンセリングは受けてません。
6)妊娠当初は個人病院にかかっていましたが、これ以上の治療はできないということで大学病院への紹介状を書かれましたが、家から遠く、ちょうどGW前だったので休みに入る前に・・・ということで、地元の総合病院(そこでもいいと個人病院に言われたので)へ転院しました。約3週間の入院安静でしたが、ちょうど連休だったせいか毎日の回診や血液検査以外の診察(内診とかエコーとか)はほとんどありませんでした。あとは点滴治療と投薬ぐらいで。
人工死産を選ばなければおそらく大学病院で治療を受けていたと思うと、あの時ムリをしてでも大学病院に行っていれば、もう少し詳しく検査や治療してもらえたんじゃないかと・・・正直そういう後悔は残っています。
私はずっと入院していたので、ネットをすることができませんでしたが、前回初期流産で子供を喪ったときに流産については調べたので、こういうこともある、というのはなんとなく知ってはいました。
主人は全く知識がなかったので、私がいない間にネットで調べて「泣いて笑って」にたどり着いたようです。
あちこちで産婦人科不足が言われている今、医師に精神的なケアまで求めるのは酷かもしれません。
でも、不安定な状態である母親を少しでも思い遣ってくれれば、説明のしかたも違ってくるだろうし、母親も少しは安心できるんじゃないかと思うのですが・・・。
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| 14 |
2007年5月 妊娠15週1日、前期破水で息子を人工死産しました。
1)破水した当初は、張り止めをして様子を見る、羊水が増えなければ流産となる可能性もある、羊水が増える可能性は低い、といった説明でした。なので、かなりの可能性で「流産」してしまうんだと思っていました。その後半日で母体の感染がすすんでしまい、残念だけどあきらめるしかないと言われました。
2)上記のような説明により、すぐに始めましょうと言われました。あきらめるしかないと説明を受けていたので、「お願いします」と答えました。しかし、診察室を出てから、看護師に「突然のことですし、少し時間をとりましょうか」といわれ、正直いって混乱しました。母体を守るためにすぐに処置をしなければならないといわれたのに、看護師は時間をとって気持ちを整理していいと言う。私はこのとき、まだ自分が人工死産に臨むということがわかっていなかったのです。
3)医師から勧められて、まったく何も考えずに「お願いします」と即答したため、決断にいたるまで誰にも話をしていません。後から夫から聞いた話ですが、夫は、もっと治療できないのか、もっと時間をもらえないのか、原因は何なのかなど、いっぱい聞きたいことがあったそうです。私は、そのとき何も考えられませんでした。これから自分がどうなっていくのかさえも考えられませんでした。考えられなかったので、何も聞きませんでした。
4)1回目の処置が始まってから、看護師が「流産・死産・新生児死亡で子どもを亡くした方の会一覧」という本をコピーしたものを、参考にするといいよと枕元においていきました。その看護師に、これからどうなっていくのかききました。(子宮口にラミナリアが入っていることすら知りませんでした)そして、自分が出した決断が人工死産を意味していることをやっと知りました。
5)上記のような理由で、カウンセリングを受けていません。
6)個人病院にかかっていて、そのままその病院で人工死産になりました。年に2ケースぐらいといわれました。
初産で、15週の人工死産。私が簡単に結論を出してしまったせいなのか、考える時間もなくどんどん進んでいきました。だれも部屋を訪ねてくることはありませんでした。間隔が十数秒になり、あまりの痛みに混乱し、嘔吐を繰り返しました。2時間おきに膣剤を入れる時間まで後10分、夫がナースコールをならすと、嘔吐用の容器を持ってきただけで、「だんなさんついててくださいね〜」と言ってすぐに助産師は部屋を出て行きました。その直後、何かが膣におりてくる感覚の後、さっきまでの痛みがうそのように引きました。
そして膣剤を入れる時間になり、助産師が部屋に迎えに来ました。痛みが引いていることを伝えたのですが、歩いて処置室まで行くことになりました。数メートルすすんだところで、また何かが膣に降りてくる感覚があり、助産師に伝えると、「とにかく処置室に行こう」といわれました。処置台に乗るとすぐに、ラミナリアが膣から飛び出し、そのあとすぐに息子が出てきました。あまりのスピードに、助産師の受け皿が間に合わず、先生の手にしばらく息子は乗せられていました。
息子が生まれた時間は8時3分です。あくまでも、助産師は8時の処置時間にこだわり、処置室に誘導したのです。
こんな調子だったので、私が人工死産について悩み始めたのはすべてが終わった後です。お棺に息子を納めて産院を後にした頃からです。
一刻も早くお空に還してあげたくて、夫が急いで手配をしているとき、看護師からいつ退院するのかと催促がありました。もうすぐ夫が棺を持ってやってくること、できれば今日火葬したいと思っていることを伝えました。すると、わざわざ後から部屋に別の看護師がやってきて、もし火葬が後日になった時、棺に入れてしまうと冷蔵庫に保管できないので、棺には入れないでくださいと言ってきました。悔しくて悔しくてたまりませんでした。幸い思いが叶って産院から斎場に直接向かうことができたのですが、看護師の見送りはなく、私たちは二人だけで小さな棺を抱えて、妊婦さんがごった返す待合室を足早に後にしたのでした。
破水する前日に「お腹が痛い」と受診した時に、異常を見つけられなかったのか、もっと他の選択はなかったのか、もっと息子の命を思ってあげられなかったのか、もっと・・・、今でもずっと思い続けています。こういう現実だったこと、初めて文章にしました。私の人工死産体験が、なんだかみなさんの経験されたこととかけ離れているようで、いつも違和感を感じていました。そしてこのコメントを考えているうち、その原因を思い知らされた気がします。 |
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1)私は2度
前期破水により人工死産を選びましたが、2回とも近所の個人病院から医大へ搬送されています。
個人病院:僅かながら可能性は残されているけどうちでは対応出来ないから、提携病院を紹介する、と言われました。(2人目の時は)大きい病院なら突出している部分を押し込んで縛ることも出来るかも??的な事も言われました。
1人目のときは先ず 日赤とA医大に電話されましたが、双方とも断られました。
これは後から聞いた話ですが、J医大の先生(部長クラス)は「どうせ無理なんだからおたくで処置したら?」と仰ったそうです。
B医大:ただただ安静に過ごすか、人工死産するか。今後の妊娠を希望するなら今回は(母体感染する前に)諦めた方が良いと言われました。今日明日に決断する必要はないが、いつ大出血するか分からないので入院はして下さいとの事でした。
2) 1人目の時は15週での完全破水だった為、妊娠継続は99%不可能と言われました。
2人目の時は14週で胎嚢突出と少量の破水により、かなり確率は低いが安静にすれば22週まで保つかもしれない...保っても厳しいけど...という内容でした。人工死産を勧められたとまでは感じませんでしたが、絶望的な気分でした。
3) 2人目のときは、治療については納得のいくまで説明を受けました。 ただ...先生もお忙しいので、限られた時間のなかで
色々と説明はして下さいましたが...医師は(仕事ですから)どことなくクールで事務的。何度話しても【話し合う】感覚が得られなかったです。
カウンセリング、受けたかったです。。
4)私達夫婦の気持ちを無視した一方的な情報提供をする先生がいて、話し終わったあとで泣いていたら、病院側の配慮で別の医師が担当して下さることになりました。
5) 受けませんでした。病院にカウンセラーがいたのかさえ、分かりません。。
6)
2回ともB医大でお世話になりました。 少し話がずれますが...
普通なら大部屋(6人)か、室料を払って2人部屋か個室になるのですが、人工死産を決断した直後(2人目の時は入院中に完全破水したのでその直後)「検査室」と呼ばれる殺風景な個室に移されました。これも病院側の配慮によるものと思います。
ですがこの検査室、天井のシミが馬に乗った赤ちゃんのように見えるんです。。お腹にきてくれた可愛い我が子とさよならするのを改めて感じるんですよね。。2人目の時は入院時から検査室に入る事を勧められましたが、それは赤ちゃんを諦めることにつながるような気がして、断りました。(大部屋で)声を押し殺して泣くのは辛かったですけどね...。それでも私はなにも特別な妊婦ではない、元気だし、お腹の赤ちゃんも頑張って生きている。普通の幸せな妊婦さん達と一緒でいたかったんです。だから移されたときは正直「またここにきちゃった...」と思いました。
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2007年8月3日に双子の男の子を22週で出産。 500グラムの可愛い赤ちゃんでした。
原因は膀胱炎がひどくなり、腎臓腎盂炎で高熱、出血、破水。
結婚9年目、流産4回目、自然妊娠が望めないので何度と無く繰り返した体外受精での妊娠、初めての心拍確認、初めての安定期、その矢先の出来事でした。とても辛くて辛くて悲しい経験です。
でも今は前向きに頑張っています!
1)私の場合、長期に渡って不妊、不育の治療をしていたので、その過程をずっと担当して下さった先生は産ませてあげたいという気持ちを持ってお話をしてくれていたと思います。
ただ、主治医の先生は「諦めてください」という冷たい雰囲気の方でした。
2)特にそれは感じませんでした。
担当の先生は大学病院以外でもとても人気の高い先生で 他の先生にはない妊婦の気持ちを良く理解してくださる方でした。
3)担当の先生はどうにかして妊娠継続、出産をさせてあげたい。・・・という考えで治療方法を模索して何度も話をして下さいました。
大学病院での治療が長いので親しくさせて頂いている女性の先生も 顔を覗かせてくれて長い時間を掛けて真剣に話を聞いて下さいました。
NICUの主任をされている女性の先生ともお話ができ、私達夫婦にとってこの先生のお話が一番ショックで現実を知らされました。
でも、先生のお話を聞いて決断する事が出来ました。
他にも助産師、看護師の方色々な方の温かい言葉に支えられました。
ただ、婦長さんは一度も顔を見ずでした。
4)決して一方的なものではありませんでした。
それぞれ違う現場にいる先生の立場から理解をして下さいました。 ただ、主治医の先生には未だに心を開くことは出来ません。
これは致しかたないことなのかなと諦めています。
5)色々な先生とお話をさせて頂いたのがカウンセリングだったと思います。
6)私の場合、抗リン脂質抗体を持っているので大学病院で妊娠初期に 管理入院、退院後地元の個人病院に大学病院の担当の先生が診察に
来ていたのでそちらで診察でした。 なので、高熱、出血の時、個人病院へ連絡し入院となりました。
個人病院の先生はあまり深刻に捉えていないようで診察、洗浄など 適当だったと思います。とても不安な毎日を過ごしていました。
大学病院の担当の先生にお願いして大学病院に転院させてもらいました。
私が大学病院にすぐ連絡をしていたら事態は変わっていたのかもしれません。 |
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私は2007年8月に14週で胎児に異常が見つかり、9月に19週で死産しました。(結果的には人工死産ではありません。)
1)雰囲気については覚えていない。 医師からの説明では、あきらめるなら1ヶ月以内にというものだった。
何をばかなことをいうのだろう。何も情報が与えられていないのにあきらめることなんて出来るものかと無言で考えていたら「今決めなくてもいいから」と言われた。
その場の雰囲気を他に選択肢がないと捉える人がいてもおかしくないだろう。私はそうは思わなかっただけだ。
その診察医師の説明を聞く前の様子。
お腹にエコーを当てながら「前の医者で何を言われたの?」と私に聞き、
首の後ろに袋が2つ見える、水が溜まっているように見える、個人病院のエコーなので古いから正確にはわからないから大学病院の最新式の機械でよく見てもらえと言われましたと。
そして無言の時間。「ここのだって最新式じゃないよ」だって。 「本当なのですか」の私の問いに「そうだね」
生まれても生きられないのですかの問いに「そうだね」 生きて生まれないかもしれないのですか?の問いに、「そうだね」しか言わなかった。
すべて私の質問に応える形で診察が行われ、その後の問診も私が主導権を握っているようなものだった。
私は基礎生物学を専攻して今もそれを仕事にしているが、医療については素人です。
2)妊娠の継続も可能といわれた。
今思えば、異常の詳細は分からないといわれた時点で、私が羊水検査の意思なし、どんな異常があっても産む、と告げたため かもしれない。
3)
・大学病院の医師(毎週交代)
妊娠継続した場合のリスクについて聞いた。私の場合、胎児を早く出さなければならない理由は無い。もしお腹の中で胎児が死んでしまっても、死後4週間以内に見つかればリスクは無い、
だから4週に一回 の検診なんだと説明される。週を重ねるごとに重大な奇形が判明する。そのたびに聞く。
継続は可能か、生まれたらどうなるのか、例はないのか。そして絶望的な答えを聞く。 でも妊娠継続は可能と言う答えに変わりはなかった。
どの医師も、どれだけ生きれば「生きたことになるのか」それは人によって違うから、先が短いから今あきらめろとは言えないという意見であるようだった。だから私の場合、人工死産を勧められたわけではないと思う。
・個人病院の医師 大学病院の診察であまりにも説明不足だったので個人病院に行き、状況を報告した。
大学病院の先生は信頼できるから、対処方針については大学病院に聞けといわれた。冷たいようだが紹介状を書いたのだからそれが筋だろう。
たった1回の診察で、決定的なことは何も言えないんだよ、間違っていたら困るから言わないんだよと。大学病院の医師の提供してくれた情報の少なさを訴えた私に解説してくれた。
どんな異常があっても産みたいと泣いた。それを受け止めてくれた。胎児が動く様子をビデオに録画してくれた。それは通常のサービスで、異常があると分かっても記録に残したいと私が頼んだのだが、普通に、してくれた。ビデオ録画は「泣いて笑って」の「これからお別れする人へ」のページを見て思いついたことだ。
・個人病院の受付の女性
私と医師との会話を聞いて会計のとき自分の経験を話してくれた女性。実は誕生死の経験者で20年前に第一子を生後3週間で亡くしたそうだ。
妊娠中のエコーでは見つからなかった。出産後、無脳症だと分かった。延命処置はしないと夫と姑のみで決められた。会わせてももらえなかったそうだ。その事実も最初自分には隠されたそうだ。
母乳が出て仕方ないから赤ちゃんを連れてきてくれと看護師に言ったら看護師の顔色が変わったと。
それから2人の子供に恵まれたが今でも生きていたら何歳だなあなど思い出さない日はないと。 その女性の友人の子は重い障害を持って生まれてきたそうだ。
どこへ行くにも子供と一緒、他人に世話を頼めない、などの苦しい状況だそうだ。
私が「どんな障害があっても産む」と言ったを聞いて、彼女は「よく考えた方がいいわよ」と言った。
・夫
自然に、命が尽きるのを待つのがいいんじゃないの。と言った。
私は「何を勝手な」「私の身にもなってよ」と泣いた。仕事、上の子の世話、自分の体。
夫は他人事のように自然に任せろという。そんなの、ひどいと泣いた。 双方の両親は暗にあきらめろと言ってくる。
いろいろな聞いた話を私に聞かせてくれる。あそこの誰々も異常が分かって泣く泣くあきらめたことがあるらしいよ・・・・
今回は無理しなくても・・・上の子もいるんだから・・・
・インターネット
病名が分からないので思いつくキーワードで検索する。リンパ液、胎児、袋、首・・・予後は悪いものばかり。
そして人工死産の体験者のページ。人工死産の経験ばかりが飛び込んでくる。異常が分かっても産むと決意した人はいないの?
本当にわずかだった。覚えている限りでは2件くらいなものだった。 生まれてきた障害者の方のページ。苦労も、喜びもつづられている。
私に育てることが出来るのか。分からなかった。
・おかよさん
インターネットを検索するうち、たどり着いた「泣いて笑って」 「予後が悪い場合は人工死産をするものなのか?」
と思いかけたそのとき、おかよさんとの出会いがあった。 おかよさんにメールを送った。 人工死産、しない手もあると気がついた。
おかよさんにメールしなかったら・・・きっと私は、周りの声が自分の意思だと思っていたに違いない。
・出版物
竹内先生の「たとえ産声を上げなくても」涙なしには読めなかった。 死んだ子を出産する、産声を上げない子を出産する。
それは悲しすぎる。 もしも生きて生まれてくる可能性がわずかでもあれば、産んであげよう。
すぐに死んでしまう命でも、可能性を今ゼロにするのはやめたい、と思える本だった。
4)医師、インターネット、本、両親、今思うとそれは全て一方的だ。
夫とおかよさんが同じ意見だったことが私を「はっ」とさせた。
人工死産の経験者の言葉は私の戸惑い、ショックを理解し、どんな決断をしてもそれが私の決断であり、正しいのだと認めてくれた。
一緒に苦しみながら、勧めもしない、否定もしない、それは私に自分は本当はどうしたいのか、自分で考えるしかないのだと問いかけるものだった。メールを泣きながら読んだ。
私は「自然に任せる」決断をした。その直後、胎児は心臓を止めた。
5)受けていない。
6)紹介されるとき、大学病院は日本でも5本の指に入る産科医がいると言われた。家から一番近い大きな病院だ。
年間100人くらいは胎児異常を見るそうだ。その分死産も多いらしい。 3年前から死産をした産婦の産前産後のケアの研究をしていると言う。
おかげで死産後の赤ちゃんをないがしろにされることは無く非常にありがたい対応であった。
5週で個人病院に行き、まず流産の可能性を指摘された後、7週で心拍確認、9週で正常といわれて喜んだが、気になることがあるからと紹介状を持って大学病院へ。異常なしと診断されまた個人病院へ。
14週で再び異常があるからと紹介状を持って同じ大学病院へ。それ以来毎週見てもらっていたが18週で心拍停止が分かり19週で死産する。 7)その他
インターネットを見ると「胎児異常は人工死産」と思えてしまうことがある。
そうするのが普通であると思い込んでしまう。障害児を育てていくことには正直言って自信がなかった。
どうせ生まれてきても死んでしまうなら・・・長くないのなら・・・
竹内先生のブログでもそれを指摘するアメリカ在住の女性の書き込みがあった。私もあの記事を見て考えさせられた。何か非常に居心地の悪いような気持ちになった。私にできることが、何か、あるのではないか・・・・
おかよさんのページに、人工死産をしない選択もあるのだと、そういう体験談もあれば意味があるのではないか。もしも意味があると思われれば是非私の体験談を載せて下さい。
選択を突きつけられた1ヶ月。きっと私は人工死産経験者と同じように苦しんだ。
それは「自己決定」という名の「自分が考えたわけではない」決定になったかもしれない決定の間を揺れ動いた1ヶ月。
自分のお腹で子供が死ぬのを待つことが常に正しいとは思わない。
でも「自分が望んだわけではないのにあたかも望んだと思わせられる」決定は、きっと残りの長い人生を変えてしまうくらいつらいものになるのだろう。
私の苦しみは人工死産経験者それにおよばないと思う。 人工死産をした方々に申し訳ないくらいだ。
今私は復帰して当たり前のように仕事をしている。 次の妊娠も考えている。
つらいことには変わりないし忘れることは無いが、もしも出来ることならば
私よりもっと傷つくかもしれない人たちの役に立ちたいと思う。 |
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私は10年前に無脳症で第二子を人工死産しました。25週のときでした。
1)医師からの説明についてですが、最初の個人病院での医師からは、ほとんど何も説明を受けませんでした。「頭の形がおかしい」とだけ告げられ、再検査を受けるように言われました。再検査までの日々に、私は簡保の電話医療相談に電話をかけましたが、もちろん「頭の形がおかしい」だけでは何もわかりませんでした。再検査の後、紹介状を渡されましたが、そのときもほとんど説明は受けていません。
紹介されたこども医療センターで無脳症の診断を受けました。そこでは「無脳症児を妊娠したほとんどの人が分かった時点で死産させるが、あなたが妊娠継続を望めば、それでもかまわない」という説明でした。
2)暗に人工死産をすすめられたという感じは受けませんでした。
3)妊娠継続か人工死産か、私は診断を受けた直後に、人工死産を決断したので、誰かに相談はしていません。
4)私は無脳症の存在を京極夏彦氏の『姑獲鳥(うぶめ)の夏』で知っていました。ですので、正直に言うとお腹の子供が怖かったです。けれど、こども医療センターの医師は、こちらを元気づけるような発言をたくさんしてくれました。時間外なのに診察してくれましたし、また、そこの看護師さんも廊下で泣いている私を見て、手をとって椅子に座らせてくれ、とても励ましてくれました。
5)決断に至る前も後も、カウンセリングは受けていませんが、医療センターの看護師さんと話したことが、そうだったのかな、とも思います。また、人工死産のあと、簡保の電話医療相談で、無脳症の話をしたとき、「あなたのせいじゃないよ」と言われて、心が軽くなったことを覚えています。
6)最初にかかっていたのは個人病院です。そこから、こども医療センターに紹介状を書いてもらいました。が、そこでは処置はできないということで、また個人病院に戻され、次に大学病院を紹介されました。
大学病院では、「大部屋は辛いだろうから一人部屋を用意したいのだけれど、空きがないんです」と、二人部屋を用意してくれました。看護師さんは一人部屋を用意できなかったことを謝ってくれましたし、「赤ちゃんの声が聞こえるのは辛いでしょう」と、気遣ってくれました。
最初の個人病院にはいい印象は持っていませんが、私はいろんな人に支えられて人工死産を迎えました。
一杯泣きましたが、人の優しさを知る経験にもなりました。
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