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娘を空へ還したのは1998年5月2日。当サイトを立ち上げたのは2004年7月でした。、サイトのリニューアルを行う度に各ページを見直してみたりしました。書いた当時の気持ちと現在の気持ちに変化もありますが、当時の気持ちを大切にしたいという想いもありますので、極力そのまま残しています。
当サイトのスタートは、単なる私個人のホームページに過ぎませんでした。それでも多くの天使ママさんと出会い、少しずつ少しずつサイトの見直しをしたりして、現在のスタイルに変化してきました。
人工死産という体験をテーマにしたサイトは少なく、経験者はネットの中を彷徨います。『流産ではない。死産でも・・・ない。だけど中絶なんて言ってほしくない。』
そんな気持ちがずっとずっと心の奥底にあったからこそ、少しずつ形になってきたサイトです。
私の体験は、たったひとつの体験に過ぎませんが、それでも何かのお役に立てるかもしれない・・・・。そう願って残していくつもりです。 |
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21週でお空に還した娘のこと
1998年1月
予定日に生理があったものの出血量もさほど多くなく・・・・ 下腹部には鈍痛があり、やはり生理かな? でも、おかしいな〜?と、思っていた。 日数も短くて・・・そしてその約1週間後、ムカムカするので 「もしかしてつわりかも・・・。」と産婦人科を受診。
エコーには小さい胎嚢がうつっていた。 その瞬間くすぐったいような感激と共に、それを打ち消すかのような戸惑いの方が大きかったような気がします。
1998年3月
妊娠がわかってからも毎日外回りの仕事をしていた。 そしてほとんど立ちっぱなし。 その日は会社へ帰る車中でとてもだるくて疲れていた。 そして夜、下着に出血が!! 慌てて産婦人科へ。「家で安静にしてください。」と薬をもらって帰宅。 妊娠初期に多少の出血があるのは、そう珍しくないことだと何かで読んだことがあり、さほど心配ではなかった。 会社に事情を説明し休みをもらって1週間。 出血は止まらない。それどころか量が増えていく。 でも、私にはまだ危機感がなかった。様子を見に来た実妹が、そんな私に早く病院に行くように促した。 そして午後に受診。即入院。妊娠15週の時でした。
規則的にお腹に張りが起きているとのこと。切迫流産だった。 ウテメリン(張り止め)の点滴が開始され、トイレや食事以外はベッドの上で安静に。 ウテメリンの副作用からか、常時吐き気と動悸に悩まされる。
1998年4月
入院して約1ヶ月。 出血はまだ続いていた。 そして生理の時にあるような下腹部の鈍痛、重い感じがあり医師に伝えた。 そして1日2回、3日間点滴で抗生物質を投与。 その後お腹の赤ちゃんも元気でお腹の張りも落ち着いてきたので、点滴が外れることになる。 午前中に最後の点滴が全部無くなったところで不自由さから開放された。 そしてその日の夜、トイレに立ったとき、水っぽい出血が「多い日用」の生理ナプキンいっぱいに染みこんでいた。 なんで?点滴外したから? でも、まだこのときも、看護師さんに報告はしたけど危機感はなかった。 次の朝、主治医が回診に来たときにそのことを告げると、「後で診てみましょう」と言われる。
結果、「羊水過少かもしれません」 確かにエコーを見ると、本来なら羊水は黒くうつるはずなのだが・・・・ 赤ちゃんの周りにはそれがほとんど無く・・・・ 「え?どういうこと?」と訳わからず・・・・。 個人病院の為、そこではもう対処しきれなくなったのか設備の整った国立の総合病院へ転院の手続きをすることに。 午後から母と看護師さんに付き添ってもらって総合病院の産婦人科外来に到着。 たくさんの患者さんが待ってる中、私は優先的に診察を受けることになった。 受診を待ってる間にも付き添ってくれた個人病院の看護師さんに 「今、赤ちゃんはどれぐらいの大きさなの?」とのんきに聞いていた。 どこかで「私に限って大丈夫」という気持ちがあったと思う。
暫くして診察になりエコーを厳しい面持ちで見ていた医師が言う。 「今の時点ではなんともいえませんが羊水過少というよりも破水した可能性が高いです。検査の結果を待ってみましょう。」 ウテメリンは錠剤で、抗生物質は点滴で投与。 ベッドの上で絶対安静となる。 お腹の張りも、また感じられるようになってきて・・・。 破水?破水って赤ちゃんが生まれる直前に起きるんじゃないの? 漠然と考えながら、なんだか、宙に浮いたような感じだった。
これから先に待ってることなんて、なにも考えることは出来なかった。 それから数日間、何度もエコーで見たりしたけれど羊水は少ないまま・・・。 まだこの週数だと赤ちゃんは羊水の中で自由に動き回れるはずなのに、 エコーに映し出される私の赤ちゃんは窮屈そうにしていた。 「そろそろ胎動が感じられるはずよ?わかりますか?」と、看護師さんから言われるけど、 私は全く胎動を感じることが出来ず。。 もしかしたら、子宮の中でキュウキュウになってた赤ちゃんは動けるはずがなかったのかもしれない。 そして・・・やはり破水だと診断された。 私の場合、ずっと出血が続いていたのでいつ破水したのかは断言は出来ないが、 出血してると破水自体もわかりにくいと言うことだった。 でも思い返してみると、先に入院していた個人病院でウテメリンの点滴がはずれた日の晩に 破水したのではないかと私は思っている。 だって明らかにいつもより多い水っぽい出血だったから。 抗生物質を投与してもらった直後だったのに、それが効かなかったのだろうか・・・。
細菌感染による前期破水だった。 もしその時に破水したのだとすると・・・、20週だった。
でも? 破水したからなに?
・・・・主治医の口から出てくる言葉に全神経を集中させていた。 冷静に聞いていたと思う。 これは最悪なことになるのかもしれない・・・・そう考えながらちゃんと聞いていた。
「中絶?!」 主治医は最終的には私たち夫婦で結論を出してください。・・・と、言う。
21週というと中絶が出来るギリギリの週数。 22週になると法律で中絶はできない。 でも、なぜ中絶なのか? 今まで張り止めや抗生物質の投与を受け、赤ちゃんを守ってきたはずなのに。
・・・・それは、まだこの週数で破水したとなると赤ちゃんの肺が成熟できず、 例えこのままお腹の中でもたせて大きくなって出産しても 産声を上げられず肺呼吸が出来ずに亡くなってしまう可能性が大きいと・・・。 たとえ呼吸がかろうじて出来ても障害が残るでしょう・・・ そう説明がある。 正直、24時間ずっと点滴につながれっぱなしで私はとっても疲れていた。 入院中もお腹の赤ちゃんのことよりも自宅にに置いてきた2匹の猫のことが心配でたまらなかった。
それにまだなんとなく実感が無かった・・・私の身に起きてることなんだけど、でも、 何処か他人事のような・・・そんな感じだった。 でも、決定しなければならなかった。 タイムリミットは刻々と近づいていく。
主治医ではなく様子を見に来た若いドクターに聞いた。 「先生なら・・どうする?先生の奥さんがこうなったら・・・・。」 「・・・ぼくなら・・・今回は諦めると思う。」 「そっか。そうなんだ。」
赤ちゃんは・・今、お腹の中で苦しいのだろうか。 私も苦しい。 そしたら、ここで終わりにしてあげたほうがいいのだろうか。
でも、お腹の中に留まらせれば赤ちゃんは大きくなる。 万が一、呼吸だって出来るかもしれない。 あと数ヶ月絶対安静のまま過ごし、望みを賭けて産んであげた方がいいのではないか。 たとえ障害が残っても、私の可愛い赤ちゃんには違いないのだから・・・・。
葛藤だった。
生きてきた中で一番悩んだ「答えを出す」ということ・・・・。 タイムリミットは近づいてる。 でも、簡単に出せる答えじゃない。 「時間をください・・・。」 そう伝えるのが精一杯だった。
一晩、ベッドの上で考えていた。 羊水がほとんど無い・・・この子宮の中で私の赤ちゃんは動かなかった。 でもお腹の上に手を置いて、心の中で話しかけた。 「あなたは・・・どうしたい?生まれてきたいよね。ごめんね。今まで自分のことばっかり考えてた。ごめんね。」 一生懸命、一生懸命話しかけた。
出血は止まらない。
ただ、怖かった。怖くてたまらなかった。 時間が戻せるなら・・・・妊娠した頃に戻って毎日毎日お腹に話しかけ、体を労わり、仕事も無理しないで ただただ無事に生まれてきてね・・・と、語りかけるのに。
1998年 5月1日
その日は妊娠週数21週3日になっていた。 一晩考えて、出した結論。
「今回は諦める」
きっと私は・・・自分が楽になりたかった。 だから諦めようと思ったのだ。 夫からも言われた。 「もし障害持って生まれてきたら、俺は自信が無い。子供にも辛い思いをさせるのではないか。」 その言葉に傷つきながらも頷く自分がいた。 綺麗事ばっかり言っても、私だって、きっと自信が無いのだ。
でも、もしここで夫が「とにかく頑張ってみよう。障害持って生まれてきても頑張って育てよう。 もし、お腹の中にもたせていても 死産になったら。。。。その時は運命だ。」と、言ってくれたとしたら・・・? 私は、点滴につながれたまま絶対安静を選んだだろう。 それぐらい私には自分で判断する気力が・・・・なかった。 自然の流れに任せるならば、今、ウテメリンをやめてもらったら・・・赤ちゃんは出てきてしまうのか。 それとも薬の力を借りながら、できるだけのことをするのが自然なことなのか。 考えても考えてもわからなかった。
お昼前、伝えた答え。 暫くして婦長さんが部屋に入ってきた。 まだ迷ってる私の目を見て、励ましてくれる。 でも、「次に赤ちゃんが授かった時」そんな言葉が、納得できずにいた。 私には今、次の赤ちゃんなんて考えられない。 今、存在しない赤ちゃんのことは考えられない。 たった今、そう、今この瞬間も私のお腹の中で生きている小さな赤ちゃん、この子を助けて欲しいだけ。 それが無理だと言うのならこの苦しみから私を助けて欲しいだけなのです。
昼食後、処置が始まると言うことだった。 こんな時にご飯食べれるはずないのに、なんで食べてるのか自分でわからなかった。 同意書だって書いた。 確か「子宮内容除去術」だと説明がされてあった。 この言葉、非常にショックだった。 私にとっては、今、命あるものを抹殺すること。 法律的にはまだ「人間」として扱われるギリギリ前だということは、承知している。 だけど、この言葉は、私には残酷で納得できたものではなかった。 この子は、どのような思いで、今、私のお腹の中にいるのだろう。
まずラミナリアという海草で出来た棒状のものを、1本、2本、3本と時間をあけて 様子を見ながら子宮口に入れていくのだと。 陣痛を起こすために促進剤を入れることになると思う。きっとお産まで3日ほどかかるだろうと説明がある。 これから長く苦しい戦いが始まるのだと怖くなった。 もしかしたら、ここから逃げ出せば・・・・赤ちゃんは助かるのかもしれない。 そうだ。逃げよう。 赤ちゃんと運命を共にしたってかまわない。 そんな考えがグルグルグルグル頭の中を駆け巡っていた。 しかし、看護師さんが迎えに来た。 ・・・・・もう、逃げられないんだ。覚悟しなくちゃいけないんだ。 どう処置室に向かったか、もう覚えていない。 でも、あのラミナリアを挿入された時の激痛は今でも忘れられない。 あの突き刺さるような痛み。 「痛い!」叫んでいた。
部屋に戻ると、何も知らない友人が見舞いに来てくれていた。 でも、なにも話す気になれなかった。 「お願いだから今日は帰って・・・」相手のことを思いやれる余裕など微塵もなかった。 生理痛のような鈍痛が始まった。
私は、「お産」をするのだ。 麻酔して眠ってる間に処置をしてくれるのかと思っていたが、それは大きな思い違いだった。 普通のお産のように赤ちゃんを産まなきゃいけない。 陣痛は、とても痛いものだと聞く。 しかしそれは、可愛いわが子に会えるからこそ、母親はその痛みに耐えることが出来るのではないだろうか。 この苦しみを乗り越えたら、とても幸せな瞬間が待っていると信じているから頑張れるのではないのだろうか。
しかし、私は・・・・? 「産む」=「死」を意味するお産が今から始まろうとしているのだ。
ただ、ただ、時間が過ぎ去ってくれればいい。 もうこんな辛いことは早く過ぎ去って。。。。
その日の晩、消灯時間が過ぎて暫く経ったころ、なにか温かいものがジュワッとおりた気がした。 瞬間、また「破水かも」と思った。 ナースコールをする。 看護師さんの腕につかまり、ヨロヨロと処置室に向かう。 当直医の若い女医さん。 「う〜〜ん・・・破水じゃないと思いますけどね。」 また部屋に戻る。 お腹の張りの感覚が・・・どんどん狭まってきてる気がする。 波が来ると、ググーッと今までにないぐらいお腹が硬くなる。痛い。 石のように固くなる子宮。 赤ちゃん・・・・ごめんね。ごめんね。
我慢していたが、やはり波はどんどん襲ってくる。 また夜中だったけどナースコール。 モニターをつけられ分娩室に移動する。 しかし医師の診察はない。 きっと、まだ時間がかかるだろうと看護師・助産師さんが判断したのだろう。 しかし、悲しいのは・・・・ 今までモニターをつけてくれるときは、赤ちゃんの心拍が聴こえるようにボリュームをセットしてくれていた。 私の鼓動よりはるかに速いその音。すごい。確かに私とは違うひとつの命が そこにはあると、確認できて嬉しかった。 しかしこの時は、陣痛の波の間隔をはかるだけ。 確かに、今、心拍を聞いたら・・・私は狂ってしまうだろう。 もし、心拍が止まったら、私はどう取り乱すかわからない。 でも今は、かろうじて一生懸命冷静に努めた。
痛みは強く、ひとりでこらえる。 真っ暗な分娩室。 わずかな灯りだけがついている。 窓の外も真っ暗。この窓の向こうには星空が広がっているのだろうか。 月がのぼっているのだろうか。 神様は、今の私を見てくれているのだろうか。 私にはわかる。赤ちゃんは、私から出て行こうとしている。 赤ちゃんはきっと今、苦しんでいる。 だから祈らせてください。お願いします。 今回はこの子を、神様、あなたのもとにお返しします。 だから・・・もう1度この子を授けてください。 どうかこの子が苦しまないであなたの許に帰れますよう。 そして身勝手ですが・・・いつかまたこの子と会わせてください。 どうかどうかお願いします。 今回はお許し下さい。どうかどうか・・・
そうずっと心の中で暗い窓の外に向かって祈り続けた。 時々はウトウトしていたのかもしれない。 しかし朝になるまで早かったような長かったような・・・・ 時間の感覚がまるで麻痺していた。
1998年 5月2日
朝9時半ごろ母が分娩室にやってきた。 疲れた私の顔を見て「一人で辛かったろう・・・ごめんね。」母の顔は泣いていた。 その時、陣痛の波は遠ざかっていた。 一旦部屋に戻る。 そしてお昼に内診。子宮口は、かなり開いていたらしくラミナリアの追加はされなかった。 人工的に陣痛を起こすため、座薬の陣痛促進剤が入れられた。 この時も「長期戦になると思う。」そう医師から言われた。
部屋に戻って30分ほど経った頃、再び陣痛が襲ってきた。 間隔はどんどん狭まる。 7分間隔。母が慌てて看護師さんを呼びに行く。 痛い。痛い。動けない。ベッドに横になったまま分娩室に運ばれる。 また何かあったら呼んでください・・・と言われる。 母はずっと心配そうに私の腰をさすってくれる。 何度も何度も襲ってくる波。 「もう少ししたら先生に診てもらいますね。」看護師さんが言う。
そしてお腹に違和感が走る。 両足がぶるぶると震える。 「いきみたい」とっさに母に伝える。いきみたいなんてどういう感覚かわからないのに。
助産師さんが診に来た。「まだ赤ちゃん降りてきてないよ。」 そんなはずない。おかしいよ。 「歩けますか?内診台に行けますか」 「無理です。歩けない。」 そうやり取りしてる時に主治医がやってきた。 「あ、赤ちゃん降りてきてるね。産まれるよ。」 産まれる?生まれる?うまれる? ・・・・・・・って、なに? この子にとって生まれることは死ぬことなのに。 生まれるなんて言葉、不適切だよ、おかしいよ。 心の中で叫んでた。
午後2時14分。 420グラムの女の子だった。
1回もいきまないうちに、赤ちゃんは生まれた。 にゅるんと、温かくて柔らかいものが太腿に触れた。 続いて臍の緒が、また太腿を撫でた。
赤ちゃんは泣かなかった。
私に赤ちゃんを見せることなく、看護師さんが分娩室の外で待っている母の元へ連れて行ったようだった。 銀のトレイに乗せられた小さな赤ちゃん。 母は泣いたそうだ。想像していたよりはるかに大きい赤ちゃん。 可哀想なこの子を思い、可哀想な私を思い、母は泣いたのだろう。 初孫になるはずだったのに・・・・・。
私は、母を悲しませてしまった。 とても親不孝なことをしてしまった。
赤ちゃんが生まれてすぐ、胎盤を引き剥がされた。 とても痛くて叫んでしまった。
終わった・・・・ 終わったんだ・・・ 何もかも疲れきってしまった。悲しいのに涙も出ない。 疲れてるのに眠れない。
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