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 人生用語辞典(第77回)


 【万物流転】

  仏教では、法、ものの法ということがあります。
  万法、よろずの法と申します。
  法というのは、つまり、
  一時も固定しないものでありましょう。
  固定するのは、人間の迷いでありましょう。

  万法という時には、
  万物流転というような言葉を使いますけれども、
  仏教では、つまり、融通無碍である。
  法というものはすべて、融通無碍のものである。
  これはこういうものだ、あれはああいうものだ。
  一応はそういう特性というものは
  認めなければなりませんけれども、
  しかしながら、すべて固定してしまうということはない。
  固定しないというところを、
  「法」という言葉で表しているのであります。
  固定しているものは一つもない、
  皆これ生滅流転せざるものはないということをば
  「法」という言葉であらわしたものと思われるのであります。

  「法」という字は、ご承知の通り、
  サンズイ偏に「去る」という字を書いてあります。
  水のごとく流れて、一刻も停止するということはない。
  だから法はいつも新しいものでありまして、
  そのものにとどまらない。
  我々は、そこに“われ”というものをたてて、
  法を固定せしめ、そして、そのために、
  我々は迷いというものを生ずる。
  一応そういうことを考えるのは便利ですから、
  何もそれが悪いというわけではないけれども、
  そういう考えにとらわれてしまう。
  とらわれてしまって、そして、
  その人間がほんとうの意味の自主性を失って、
  万物の奴隷ということになる。

  つまり、すべて世界をば、
  すべて法をば機械化してしまって、
  そして、自分が主体だと思うけれども、
  主体だと自分が決めてしまうと、いつのまにやら、
  その主体がそのものがまた機械化してしまう。
  そういうようなことになるわけでございます。

   ◇引用◇
   曽我量深著「曽我量深選集・第12巻」
   彌生書房 110ページ

  *・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・* 

  *ここより蛇足

  そこに太陽があり、その熱と光に照らされて花が咲く。
  この自然のことには何の理由もない。
  ただ、そうなっているだけだ。
  主体を認めない仏教では、それを自然法爾という。

  この宇宙なるものは神が造ったという理屈を立てる人もいるが、
  この宇宙のこと、万物のことに説明はいらない。
  あるがままに、あるように起こっている、
  そのように理解するだけでいい。

  また、人間の心も万物の摂理の例外ではないのだから、
  この心という現象も縁に催されてただ起こっている。
  心に理由もなければ、余計な説明もいらないだろう。
  ただ起こっているだけのことだ。

  ただ起こっているだけのことを捉えて、人は、
  なにか特別のことのように思いたがるが、それが執着だ。
  特別の評価を与え、説明を加えることを分別という。

  ただ起こっているだけの心の現象を、
  ただ認めて、意味を認めない。
  これを無分別という。

  無我の境地などいう特別なさとりがるのではなく、
  もとより、法のありようを無我(=自然法爾)と言ったのです。

   濁川(だくせん) 2006.04.15

   ◇濁川の仏教&人生論ノート
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