| 2005年8月29日楽生院訴訟弁論期日 |
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8月29日は、楽生院の裁判の原告本人尋問と結審の日になります。 |
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昨年の8月に始まったソロクト裁判ですが、一年を経て、楽生院訴訟も結審を迎えました。一連のソロクト、楽生院裁判の最後の弁論です。この日も、傍聴席は満席。来たる判決に向けて、胸が高鳴ります。 最初は、楽生院入所者であるWさんの尋問です。もともとガキ大将だった彼の人生は、ハンセン病にかかることで一変してしまいます。彼の自宅に、警察官や衛生省の役人がやってきては、楽生院に入所するように言います。Wさんは、彼らがやってくるたびに、サトウキビ畑に隠れて泣きました。ある日の未明、警察官が、予告なしにやってきて、Wさんは、自宅から連れ出されました。家族との別れに際し、15歳の少年の胸は「張り裂けんばかり」でした。お召し列車に乗せられ、そして、歩いた跡がずっと消毒されたことを見た彼は「死んだ方がましだ。」と思います。楽生院で待っていたのは、治療ではなく土木作業でした。彼は、寂しさで、毎夜寝る前に、涙にくれていました。ある日、院内の仲のよかった友人から「ここに来たらもう出られないよ。」と教えられました。絶望的な話でした。彼は、断種手術の様子や、堕胎された胎児の標本を目にしました。「ハンセン病の患者を減らすため」彼も、自分たちを抹殺しようとしている、その意図を認識していました。院内では餓死者が続出し、彼は、自宅に逃げ帰ります。家族は、彼を暖かく迎え入れました。しかし、すぐに警察官がやってきます。楽生院に連れ戻された彼は、殴打され監禁室に入れられました。戦後になっても、彼は、院を出ることを許されませんでした。彼の入所後、家族は、村八分に遭っていました。そのため、親族名簿から彼の名前は削除されてしまいました。大勢の甥姪と会うことはあっても、声をかけたりはしません。ハンセン病者というコンプレックスが、このような行動をとらせたのです。彼は言います。「強制収容をされなければ、たぶん家庭をもっていたでしょう。」ハンセン病隔離政策がなければ、彼にどんな人生が開けていたでしょうか。我が国のハンセン病隔離政策が、まさに海を越えて、台湾でもたらした人生被害のいったんでした。 続いて、徳田弁護士が、結審にあたって、意見陳述を行いました。「原告らの願いは、日本国内の療養所の戦前のみの入所者と平等に扱ってほしいという・・・実にささやかなつつましい願いです。・・・わが国の国会は、「我らは、これらの悲惨な事実を悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め深くお詫びする」と・・・謝罪しました。今、司法に求められているのは、この異例とも言うべき立法者の痛切な思いをどう受け止めどう生かすのかということだと思います。」 そして、判決期日が指定されました。楽生院訴訟の判決は、10月25日午前10時30分。なんと、ソロクト判決の30分後です。10月25日、連勝して、見事な秋晴れを期待しましょう。 夕方6時30分からは、日弁連会館において「韓国ソロクト・台湾楽生院裁判を勝たせるつどい」が開催されました。200人くらいは集まったものと思います。 ソロクトからはチャンギジンさんら二人の原告、そして、楽生院からは陳石獅さんが壇上に上がり、お話をされました。陳さんは、「この裁判を通じて、私たちには人権があることが、よく分かった。」と話され、裁判の勝利とともに、楽生院の移転問題についても闘っていく決意を表明されました。 韓国弁護団のハン弁護士は、「10月25日は、必ず勝訴する。みんなでお祝いをしたい。」とエールを送りました。台湾弁護団の呉弁護士は、「10月25日の勝訴判決は、台湾のハンセン病差別、偏見をなくす大きな第一歩となる。」との期待を表明されました。 徳田弁護士からは、「大風呂敷」と自嘲しながら、「判決前夜の24日に、1000人集会をやりたい。それでこそ、翌日の勝訴判決を受けて、厚労省を包囲できる。その勢いで、厚労相面談、そして、控訴断念を勝取りたい。」という行動提起がありました。 これを受けて、支援者から、「徳田弁護士に、大風呂敷を広げさせるままにしておくわけにはいかない。何が何でも、二連勝して、控訴断念を勝取るために、今日までの数倍の努力を結集して、徳田弁護士の風呂敷で包もうではないか。」という力強い決意表明がありました。 いよいよです。24日、判決前夜大集会、判決、厚労省包囲・・・、そして控訴断念。24日夜、東京で会いましょう。 |
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