ここは、月にほど近い訓練空域。人は、貪欲に貪欲に、その限界を超えて突き進む。まさに、ある意味その最先端の場に身を置く者達の艦、ガゼルUは白銀色に輝き、虚空に浮かんでいる。
上半身はだけたパイロットスーツで、その若い男はブツクサ言いながら、躰に張り付けたセンサーをはずしていく。額、首筋、胸、背中、上腕部…。細いコードを確認しながら、腰の部分の内側にある小さなデータ収集ユニットを外して、私に手渡し、漂うタオルを掴んで汗を拭う。
汗が前髪の先から滴るほどの過酷な運動量。一見、けろりとしている男の引き締まった躰の表面には斑にピンクの内出血の痕。強いGの負荷に毛細血管が悲鳴をあげるとこんな風になる。
シュン、とドアが閉まる音を背中で聞いて。
フラガは奥のロッカーまで漂う間にパイロットスーツを脱ぎ、汗まみれのインナーをランドリーバッグに突っ込んで、シャワーに向かう。
眼の奥が、重い。
今日のデータが反映されて、OSが修正され、次のフライトが組まれるのは多分明後日。
飯食って。眠って。
それからイメトレ。さっきのあの高機動パターン。もう少し負担を減らしたい。
指先ほんの数ミリの動きであれだけかっとぶのは、構造に遊びが無さ過ぎるんだよな。
格段に性能が上がるモビルアーマー。
重力がない宇宙では、地上の戦闘機とは比べものにならないようなおもしろさが味わえる。
しかし、それは諸刃の剣。
操縦者の身体に対する負担はむしろ増すのだ。
シャワーブースで温度の設定をし、熱めの湯を浴びる。
圧搾空気と共に吹き出す湯は、足下に吸入されていく。
「あち…」
ため息。
重力の無い環境に、違和感があるわけじゃない。地球を離れたのはもう随分前の事だ。
ざっと身体を洗い、タオルでクセのある金髪をガシガシと拭う。
仮眠して、起きたらジムに行こう。
強ばった筋肉を解さねばならない。
自分を守れるのは、自分しかいない。
当たり前のこと。
「さて。まず飯だな」
アンダーシャツに、ズボン、上着を引っかけて、居住区に向かう。
手には分厚いマニュアル。
無駄な時間は、無い。
食堂で温めたパイロット・レーション(糧食)を受け取り、休憩室に入る。
ガゼルUに乗り込んでいるテストパイロットは、皆それぞれに名を知られた男たちである。候補に女性もいたらしいが、結局残らなかった。そのため、この艦には殆ど女性がいない。
年齢的にも、技量的にも、フラガは一番の若手で。この183pのガタイでひよっこ扱いなのである。
「よう、坊主!マムは元気か?」
そのひよっこに。
担当としてついた航空宇宙生理学の専門軍医が、唯一の女医であるセーラだったので。
絡まれるのは必定だったのだ。
声の主はロイ・エドワーズ。フラガの三つ年上の27才の中尉で、第二軌道艦隊から派遣されてきている。陽気で、あけすけで、刹那的ともいえる、ある意味典型のアーマー乗り。
「お元気ですよ。先ほども、口のきき方が悪いと叱られました」
「ふうん」
ちゃかすような彼だが。食事を終えた跡がみられ、手元には見慣れたシミュレーション画面が起動されたPCがある。
「で、どう?」
「何がです?」
「セーラ・イオリ大尉殿」
「仕事ができるおねえさん、て感じですかね」
「それだけ?」
黙して、受け流し、フラガはレーションのパックを開き、口を付ける。
フラガだって女性は嫌いではない。
むしろ好きだ。温かくて、柔らかくて、甘い夢を、見せてくれる…。
しかし。
アレはそんな対象になる相手ではないし、ここはそんな場所じゃない。
「勿体ねえな。あんな美人。色は抜けるように白いし、宇宙艦のクルーにしちゃ珍しいロングヘアだし」
そうだっけ?
視線をちらりとだけ、ロイに向けて、フラガの指先は開いたマニュアルの頁を探る。
「あれだけスタイル良いのに、なんで男性仕様の制服しか着ないんだかなあ?」
だから、なんなんだ?
「”マム”は対象にはならねえか?」
「それ以上口にすると上官侮辱罪適用で艦長に告発するけど、よろしくて?中尉?」
いつの間にか、休憩室の入り口にその女は立っていた。
げ、と首をすくめるだけで、ロイは悪びれることもなく笑顔を浮かべ、セーラを見る。
「失礼いたしました。大尉」
「貴方のシフトじゃ、もう睡眠のはずでしょう?エドワーズ中尉、ドクタ・リンツが探していたわ」
ノートPCを閉じて小脇に抱え、レーションのパックをざっと片付けてロイは敬礼し、フラガの頭を軽く小突いて休憩室を後にする。
「もう…」
しょうもない…と、ちらりと睨むような視線で彼を追い、横を向いたセーラのうなじ。
確かに、肌の色、白いな。
いつもの白衣ではなくて、制服の襟元をくつろげた姿。淡いピンクの紅をさした口元。
そーか、気がつかなかった。
確かに美人だ。
だからといって。何がどうなるわけじゃないけれど。
四六時中一緒にいる相手だ。確かに、おっさんのドクターよりはラッキーなのかもな…。
「なあに、貴方も彼の毒気に当てられた?」
いつの間にか、こちらを向いて、小さなケースを差し出したセーラが人の悪い笑みを浮かべて、フラガの顔をのぞき込む。
「いえ、別に。彼の言うことも、もっともだと思って」
「色が白いのも、髪が長いのも、ずっと艦で暮らしてるからよ。好き勝手な事を言ってくれるわね」
軽く勢いを付けたケースがフラガの手に放られる。
「サプリメント。ちょっと配合を変えたから」
ついでがあったので、届けた方が早いと思って。そう言って彼女は微笑む。
毎日の行動パターンが、読まれている。なんだか、くすぐったい気分だ。マジ、ロイの「毒気」に当てられたってか?
「これって、ドーピング?」
ばかねえ、とセーラは笑う。
「もともとケミカルなのは好きじゃないのよ。全部食物由来で抽出されたものばかり」
「どうも…」
「本当は、全部きちんと食事で採れたら良いのだけど。ここではこれが精一杯だわ」
どやどやと、通路の向こうにまた人の気配がする。
「うるさそうだから、行くわ。今日の分、解析完了したら次回のプレブリーフィングの前にメールしておく。読んでおいて」
姿勢を正して敬礼する彼の手に、ハイタッチして出ていくセーラ。
柔らかくて白い指先。
仕事以外で(?)手を触れたのは、ひと月一緒にいて初めてかも。
そんなことを、頭のどこかで考え始めた頃に、また3人の先輩士官がレストルームに入って来た。
形式だけでも敬礼をして。
部屋の隅に場所を移し、またマニュアルに視線を落とす。
やらねばならない事は。
今のフラガには、まだまだ山積しているのである。
「やはりフラガ少尉の反応速度が一番速いな」
比較データの表示を見て、技術士官らがチェックを入れる。
元の機体はほぼ同じだが、あとは各自の身体のデータに合わせて最適化したOSを作成しているのだ。
それぞれが優秀な操縦者たち。
カスタマイズしたOSから、いずれ汎用のモデルを構築してゆくことになる。
7人分の良いところをとりこんだら…。
そんなに、美味しいことができるのだろうか…?!
セーラには、機械屋の考えていることは分からない。ただ、医師としてデータに関する意見を述べ、操縦者の負担を減らすべく管理してゆく事が求められるのである。
「イオリ大尉、彼は何か特別の訓練でもしているのかね?」
モビルアーマーの開発業務を統括しているグレイブ中佐が興味深げにセーラに問いかけた。
「この艦に来てからは、他のパイロットより少々多めにジムの時間をとっている程度です。むしろ、多めに睡眠をとり、しっかり食事をとっていると言う点からも、自分を律する事に関して長じているというべきでありましょうか」
これだけの期間、じっと狭い艦内で毎日同じような事ばかりを繰り返している。
ストレスでいらつくことだって当たり前だ。一応皆エリートの自負があるから、そうそう表には出さないけれど。そんな中で黙々と、きちんとなすべき事を成すのは、成し続けるのは実は一番大変な事なのかもしれない。
戦闘ではないけれど。溺れそうな宇宙空間に出て、身体の限界までモビルアーマーを操り、試験のフェーズとしては既に模擬戦も始まっている。
艦に還っても大した娯楽があるわけではない。
他の乗員よりも少しだけ広めの個室、品数が多い食事(とはいえ、レーションであるには変わりない)。たかだかそれくらいの旨みだけ。
俗な言い方をすれば、酒もタバコもナシ、生身の若い女の子の影もない。命を、ギリギリ研ぎ澄ませて集中するためには仕方のない事ではあるが。
それは、彼らにとってはかなりキツイだろう。
なまじ、一番若くて経験の少ない分だけ、フラガには有利なのかもしれない。
教育課程の厳しさの記憶が生々しいうちの方が、この環境に適応しやすいのではないだろうか。
自信の無さは、諦めることをしなければ、必然的に努力へと己を導く。
沢山の試験に立ち会ってきたセーラには、フラガの本質にある真摯さがそのままデータに現れただけのように思われる。
他の連中が劣っているのではない。十分に優秀で、おそらく技術屋にもそれは判っているはずだ。
ただ、紙一重でも、良いデータを出せる人間がいるとなれば。
それは尊重されるものだ。
何が、違うのだろう。
OSは、本来の、乗員それぞれの個体差を埋めて、ある程度には補正できるようになっているはず。訓練時間と、操縦の経験でいえば、他の6人の方が格段にレベルが上だった。
ムウ・ラ・フラガという男がそれだけ資質に恵まれているという事なのだろうか。
ふと、あることを、セーラは思いつく。
後で、ブリーフィングの前にでも聞いてみよう。
そのイメージは、どこか育ちの良さそうなかれの風貌に、合致するような、そんな気がしたから。
「ピアノ?」
実機試験前に使うシミュレータの順番を待つ間。ドリンクのパックを手渡しながら。
セーラは思いつくままに聞いてみた。
「そう。もしかしたら、子供の頃にでも習ったことがあるんじゃないかと思って」
両手の10本の指。
戦闘機でも、モビルアーマーでも、機動性の良さを求める機体の操縦桿には指毎に小さなスイッチがあり、多いものはそれ一つ当たり4つの機能を兼ねていたりもする。全てを頭に入れ、無意識のうちに操作できるようになって、初めてきちんと機体の制御が可能になる。
「んーーー、遙か昔に…母親にならってたけど。それが何か…?」
やはりな、と思う。
「それが身を助けていた、ってこと。慢心に繋がるといけないと思って、黙っていたけど。あなた、現時点で試験のデータ、トップ」
へ、と意外な顔を見せるフラガ。
「指の一本一本をバラバラに制御するって、大人になってからじゃ、なかなか思うように習熟できないものよ。データの差の原因がなんなのか、考えた結果、もしかしたら…って」
一瞬、唇を噛んだフラガの表情は、それまでに見たこともないものだった。
「ふうん」
苦い物を、口に含んだような。そんな顔。
「なにか悪いこと、言ったのかしら?」
片眉を、ひゅっと上げて。
「いや、気にしないで。へえーーー、オレ、トップなんか取れたのな…。すげー意外」
「別に、トライアルじゃないからその辺間違えないでね。テストパイロットに求められるのは冷静に、客観的に機体と自分を見つめることなのだから」
「了解!」
ニカっと、白い歯を見せて笑う。まるで子供のようなその笑顔につられて、セーラも口元をほころばせる。
そのとき。
そう深く考えずに交わした会話を。
後に。
セーラは苦い思いで振り返ることになる。