東方の夢を願って
平成5年2月 比隣 |
東方園−一軒の中華料理店の名前である。もし女将の吉崎純子(中国名は董韻)さんの説明を聞かなければ、この店の名前がこの家族の二世代の人々の苦労や努力および希望を意味するということは誰も知らないだろう。
「東方」という二文字はそれぞれ純子さんの父親の苗字「董」と母親の名前「芳子」の「芳」からなる「董芳」の類音語である。「これは両親を偲ぶ気持ちを託しただけではなく、私達の生活している東方世界に対する愛着も含んでいます。また、園という文字は円満、団欒の意味です」と純子さんは言う。
純子さんは帰国者として既に十一年目になった。彼女は両親とともに中国大陸で思春期までを過ごした。その間に、彼女と家族全員はどんな苦労をしたのかが想像できるだろう。台湾で生まれ、日本で成長した父親は一九七六年、文化大革命の終わる前に亡くなった。母親と純子さんを含む五人の兄弟姉妹は色々な困難を乗り越えて一九八二年に日本に戻った。このような話をする時でも、純子さんは非常に落ち着いており、恨みも持っていないし、怒ることもなかった。
「私は幼い頃から色々な苦労をしてきたので、他人が耐えられない苦しみに耐えられるのです。今思い出すと、そのような苦しみは全て人生の中の貴重な財産であり、残念なことではないと思います」、おそらく辛い経験によって形成された強い性格をもって、純子さんとその夫の関存治は日本で自分の道を拓いた。
日本に帰国する前には、純子さんは中央音楽学院のピアノ教師であり、関さんは中国放送交響楽団のファゴット首席であった。中国では一流の芸術家であったのに、来日してからは料理店を営むというのは多くの日本人には理解し難いし、非常に残念に思う中国人も少なくないだろう。
「もちろん原因の第一は言葉が不自由なことです。もっと重要なのは日本では芸術家として経済基盤がないと駄目なことですね。日本の交響楽団の団員は普通数百万円もする高級な楽器をもって、自分の愛車で練習しに行くのですが、私が三十数万円で買った安いファゴットをもって自転車に乗って練習しに行くわけにはいかないでしょう」と関さんは説明した。
文化大革命時代に関さんは農場の食堂で調理人として四年間働いた。その間に彼は調理の技術を身に付けた。このため、妻や親戚および友人達の反対にも拘わらず、関さんは八五年末に中華料理店を開業した。
東方園を開業した最初の三年間は赤字であった。一貫して自立を信念とする純子さんは、帰国して一年後には日本政府からの帰国者援助金を断った。彼女は東京芸術大学で勉強しながら、幼い息子の面倒を見た。家族三人の生活費はほとんど純子さんがピアノを教えて得た収入で維持していた。
「何回もやめようと思いましたが、結局我慢しながら頑張ってきました」と関さんは言う。「東方園を今日まで維持して来られたのは私達が信用を第一にしたからです。人はお金ばかり考えていると駄目ですね。もちろん、人を騙せばすぐに儲かるかもしれないが、だんだん信用は無くなってしまいます。お金を儲けることよりも、我々が誠心誠意を込めてサービスしていることをお客さんに知ってもらうことが何よりも大切です。そうすれば、日本のしきたりを知らない為に他人に迷惑を掛けることがあっても許されるでしょう」
このような状況の中でも、夫婦二人は自分達の好きな音楽芸術を忘れたことはなく、チャンスがあれば東方園を芸術家の交流の場にしたいと願っていた。
チャンスがやっと来た。二年前に東方園二階にあったマージャン屋が引っ越したのである。夫婦は友人の援助を得て、借金で二階を改装した。これで夢に見た東方芸術サロンが誕生した。東方芸術サロンが誕生してから現在に至るまで様々な演奏会、気功講習会、書道講座などが合計十八回も行われた。観客は540人以上に達した。有名なピアニスト石叔誠と馬頭琴演奏家斉宝力高も日本に来た時にここでサロン音楽会を行った。筆者は失礼ながら「経済効果」を聞いたが、主人はこう答えた。「文化交流活動に属するものなので、入場券は千円前後ですし、しかも出演者と講師に謝礼を支払わなければならないので、私達は儲かるどころか、しばしば損をしています。ただし、たとえ損をしても楽しいのです。これは料理店を開いた時とは違って、多くの日本人に中国の文化芸術を理解してもらうことは私達にとって一つの大きな楽しみだからです」
話題が将来の計画に移ると、夫婦は「これからは在日の中国人芸術家をここに出演するように招くだけではなく、日本の芸術家も呼んで文化交流を行いたいと考えています。このサロンはまだ出来たばかりなので、これからもやりたいことが沢山あります・・・」と答えた。
ここまで話をした時に、息子の関健君が部屋の中に入ってきた。「貧乏人の子供は早く自立します」と関さんは言う。「彼は私達と一緒に苦労してきました。家の仕事は全て上手くできます」。純子さんは夫の話を引き受けて次のように語った。「日本に来た時、彼は幼稚園に行く年齢でした。現在ほかの子供たちは既に中国語を忘れてしまいましたが、彼はまだよく覚えています。彼は自分が日本語と中国語の両方を覚えているべきだと考えています。私達も子供が二つの国の美徳と優れた文化を身に付けるべきだと思います。私達のサロンも二つの文化が互いに補い、相互融合の役割を果たすべきでしょう」。ここまで話すと、彼女は少し興奮してきたようだ。「私は中国大陸、台湾および日本と縁をもっています。そのため、私は色々な苦しみを体験してきました。それにもかかわらず、私は過去に恨みを抱きたくないし、東アジアの三つの地域の人々に過去の悲劇を再び味わってもらいたくないと思います。これからは互いに理解すべきだと思います。母親は亡くなる前でさえ、自分は中国を侵略しに来たのではなく、戦争に反対するために中国に来たのだと教えてくれました。母は死ぬ時にも中国に対して美しい愛情を持っていたのです。両親は一生を音楽教育に捧げました。私達ができる限り多くの人々に東方文化を知る窓口を提供することは、やはり両親の夢を叶えたい為です。」
ここまで聞くと、私は彼らが日本で一生懸命努力するのは単に生計を立てるためだけだと見てはいけないことに気付かされた。芸術サロンの誕生と発展はまさに彼らが芸術を追及する強い信念の表れなのである。この東方園の店名には東方の夢を願ってやまない信念が含まれている。
(※注) 本文は、平成5年2月、『日中新報』に掲載された「多角経営中華料理・東方園由来記」から抜粋した記事です。
本文の著作権は『日中新報』に帰属します。
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